治世初期とニカの乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:20 UTC 版)
「ユスティニアヌス1世」の記事における「治世初期とニカの乱」の解説
詳細は「ニカの乱」を参照 統治者としてのユスティニアヌスは非常な精励さを示した。その働きぶりから、彼は「眠らぬ皇帝」として知られたが、一方で人付きがよく、忠告を受け入れる人物でもあった。ユスティニアヌスは地方の下層階層出身であったため、コンスタンティノポリスの伝統的な貴族階層に権力基盤を持たなかった。その代わり、彼は生まれではなく功績によって選ばれた非常に才能のある男女に取り巻かれていた。有能な臣下には司法長官のトリボニアヌス、外交官で長きにわたり宮内長官を務めたペトロ・パトリキウス、財務長官カッパドキのヨハネスそしてかつてなく効果的に徴税を行い、これによってユスティニアヌスの一連の戦役の財源を賄ったペトロ・バルシャメス、そして最後に偉大な名将ベリサリウスがいた。 528年、ユスティニアヌスはトリボリアヌスらに古代ローマ法の集大成である『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)編纂の勅命を下す。529年、古代からの伝統的多神教(異教)を弾圧。アテネのアカデメイアを閉鎖し、学者を追放した。 ユスティニアヌスの、有能ではあるが人気のない助言者を登用する傾向は、その治世の初期に危うく帝位を失わせかけた。532年1月、コンスタンティノポリスの戦車競走の支持者の党派が団結して後にニカの乱の名で知られる暴動を起こした。彼らはトリボニアヌス他2名の大臣の罷免を要求し、更にはユスティニアヌス自身を打倒してアナスタシウス1世の皇甥である元老院議員ヒュパティオスに替えさせようとした。群衆が市街で暴動を起こしている間、ユスティニアヌスは首都からの逃亡を考えたが、皇后テオドラの叱咤によって街に留まった。続く2日間に彼はベリサリウスとムンドゥスの二人の将軍に容赦ない鎮圧を命じる。歴史家プロコピオスは競技場で30,000人の非武装の市民が殺害されたと述べている。テオドラの主張により(ユスティニアヌス自身の判断に反して)、アナスタシウス1世の皇甥他は処刑された。
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