治世・人物
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直諒の治世には、文化5年(1808年)の砲術心得の者の佐渡国派遣や同7年(1810年)の佐渡警備を始めとした、異国船到来に伴う海防関係の経費が嵩み、前代の陸奥との高替え以来窮迫の度を加えた藩財政はさらに悪化した。これに対し直諒は、自ら徹底した財政改革を指示したが、城下の大火や三条地震など天災が集中したこともあり、大きな成果は挙がらなかった。さらに天保の飢饉にも見舞われ、当時成長しつつあった領内の大地主や豪商に依存することで危機を凌いだ。 直諒は父と同じく好学の大名として知られた。江戸に講堂を設け、国元の藩校も直諒の治世に大きく充実した。隠居後は「健斎」または「退翁」と号して学問論や海防論・勤王論などの分野で著書を執筆し、尊王開国論の論陣を張った。また茶の湯にも傾倒し、茶道の宗匠となって「翠濤」と号し、石州流怡渓派から一派を起こして越後怡渓派と称した。
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治世・人物
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直侯の治世の初期に起こった「清涼院様一件」は、7代藩主・溝口直温の正室であった清涼院(直侯には実の祖母に当たる)の意向で、旧来の重臣が退けられ、清涼院に付き随って松平家からやって来た新参の相葉七右衛門を重職に任ずるといったことから始まった権力抗争であった。当時後見をしていた隠居の直養は清涼院に強いことが言えず、やむなく清涼院の生家の人物でもある老中松平信明が間に入って裁定をし、清涼院方の相葉は罷免された。 この事件はこうして解決したが、その懲罰的意味合いがあるとされる2万石の高替え(領地の交換)は、新発田藩に大きなダメージを与えた。陸奥国の新領は同じ2万石とはいえ、実際の生産力は越後の旧領と比してかなり低く、藩財政を打撃した。またこの時期には越後の領地も大水害に襲われ、幕府より関東筋川々の普請役や勅使の饗応役を命ぜられたこともあって、前代にやや持ち直した藩財政は再び窮迫するようになった。徹底した倹約が触れられ、家臣からの借り上げも復活した。 直侯は成人して後、「幼少で自ら政治を行っていなかった時のこととはいえ、先祖から持ち伝えてきた領地を手放すことになったのは、後々までの恥辱である」と日々思い悩んでいたという。このことが大きなきっかけとなって藩財政も窮迫し、死の直前には家臣間の抗争も再発した。不遇な一生であったといえる。 好学の大名としても知られ、膨大な読書の記録が残されている。ただし、祖父が傾倒した山崎闇斎の学派(崎門)には批判的であり、一方で国学に心を寄せていたとされる。
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治世・人物
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直養は当初部屋住みの身であったこともあり、比較的自由な立場で若年期を送った。とりわけ学問に傾倒し、稲葉迂斎らに学んで山崎闇斎の学派(崎門)の影響を強く受けた。家督後はこうした学問上の理念に基づいて積極的な政治を行い、その治世は「安永の治」とも称され、また直養自身も新発田藩中興の英主と讃えられるまでに至った。 直養はまず、財政改革に力を注いだ。以前から続く財政難は危機的な状況になっており、直養は勝手方の家老を交代させて、徹底的な財政改革を求めた。この時期にも接待役・普請役の負担や目黒行人坂大火での上屋敷類焼などにより出費は多かったが、徹底した倹約と、領内に課した御用金などによってこれを乗り切り、家臣よりの借り上げ米を一部割り返すことが可能になるまでになった。 一方、こうした財政再建のための負担転嫁もあって窮乏しつつあった農村の救済のためには、雑税である万雑(まんぞう)の改革や、実情に応じた土地調査(地改め)、また社倉設置を始めとした飢饉対策などが行われた。家中や領内を対象にした法令の改定・整備も行われた。 直養の治世で最も注目されるのが、学問奨励の政策である。直養自身が前述したように好学の大名であり、『勧学筆記』などの著書もある人物であった。藩内にも学問を広く奨励し、安永元年(1772年)には藩校(「講堂」のちに「道学堂」と名付けられる)が設立された。また領内の庶民教育のために、百姓・町人の好学の者を「社講」に任じて町や村で講義をさせた。さらに直養の著作『勧学筆記』や四書五経などを印刷して領内に配布することも行われた。また「医学館」を設立して医学教育を行い、さらに施薬方を置いて貧しい庶民への医療を担わせた。このほか、儒教の理念に基づく祖先祭祀のために祠堂(奉先堂)を設け、歴代の藩主を祀った。藩の正史といえる「御記録」の編纂が始まったのもこの時代である。 一方、直養は日本橋西岸の芸者と懇意となったが、立場上頻繁には会えない。そこで天明元年(1781年)秋に、浮世絵師の北尾重政にこの芸者の絵姿を描かせ、自身で長文の賛を書いて双幅に仕立てて愛玩したという逸話も残る。
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