治世の評価
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「アフマド・マンスール・ザハビー」の記事における「治世の評価」の解説
アフマド・マンスールは1603年に疫病で亡くなり、後継を二人の息子が争った。兄のザイダーン・ナースィル・ブン・アフマドはマラケシュを本拠地とし、弟のアブー・ファーリス・アブドゥッラーはファースを本拠地としたが、弟の権力基盤は弱く、権力を及ぼすことのできる範囲は地元周辺に限定された。アフマド・マンスールはマラケシュにあるサアド王家の墓地(英語版)に埋葬された。 アフマド・マンスールの外交は、オスマン帝国のスルターンが付け入る隙を与えず、モロッコの独立を保った。国同士の力関係を利用するのに巧みで、オスマン人とヨーロッパ人を互いに競わせた。しかしながら、加齢に伴う過ちを繰り返し、収入以上に金を使った。問題を解決するために他国を侵略して収入を増やそうとしたが、これは過去に多くの為政者も陥った過ちである。ソンガイ帝国への侵攻は最初のうちこそ成功したが、時が経つにつれ征服地の民を制御しきれなくなり、サアド朝の国力は衰え、威信は失墜した。
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治世の評価
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「ムハンマド7世 (ナスル朝)」の記事における「治世の評価」の解説
ムハンマド7世は、祖父のムハンマド5世が唱えた平和を追求する政策を放棄し、戦争を避けることなく、何度も襲撃を行った。しかし、彼が支配していた時代は、グラナダに対するカスティーリャの優位性が高まっていた。グラナダはもはや北アフリカのイスラム教徒からの組織的な支援に頼ることはできなかったが、宗教的な動機を持った少数の戦闘員が海峡を渡ったこともあった。一方、カスティーリャは黒死病の終息後、力強さを増し、マンパワーも回復し始めた。カスティーリャは、攻撃兵器としての大砲の使用を増やし、その効果も高まっていたため、防御的な戦いが多かったグラナダよりも優位に立っていた。また、ムハンマド7世の統治下では、双方の辺境にいた人々による国境紛争が始まり、中央の政府はこれをコントロールすることが困難になっていた。このような争いは、英雄的な行為以外にはほとんど利益のない襲撃という形で行われることが多く、有名なカスティーリャの辺境バラード(西: romances fronterizos)の題材となっている。治世中には、ザハラ・デ・ラ・シエラを含む領土を失っている。
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