治世初期とエラムに対する遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 17:20 UTC 版)
「グングヌム」の記事における「治世初期とエラムに対する遠征」の解説
前1932年にグングヌムが彼の兄弟ザバイア(ザバヤ)から王位を継承した時、ラルサはメソポタミアの政治世界において小さな勢力に過ぎないと見られていた。しかし、グングヌムがこの地方に政治的な足跡を残すまで長い時間はかからなかった。グングヌムの年名は治世初期におけるエラムに対する2度の軍事遠征を記録している。最初の遠征は彼の治世第3年に行われ、エラムの一地方であるバシメ(英語版)を攻撃し破壊した。この地方は北は南部フーゼスターンから南はブーシェフルに至るペルシア湾の海岸地域に位置していたであろう。 グングヌムはこの勝利に続き、別の遠征を治世第5年に実施した。この時はエラム最大の都市の一つであり最も重要な都市の一つであったアンシャンを攻撃して破壊した。この出兵はグングヌムに莫大な富と偉大な政治的威信をもたらしたに違いない。そうでなければ、何が彼をこれらの東方のエラムへの遠征に駆り立てたのか説明不能である。一つの可能性は、アンシャンが45年前にイシン王イディン・ダガンの娘とアンシャンの支配者が結婚することで結ばれたことが知られているアンシャンとイシンの同盟を維持していた可能性である。この想定が事実である場合、グングヌムのエラム遠征は、イシンの地域的覇権に挑戦する前にラルサの東側面の安全を確保するための成功した試みであったと理解することができる。 グングヌムの2回のエラムに対する遠征に続く時代は比較的穏やかであったように思われる。彼のその後の4年間の年名は新しい大祭司の任命や、ラルサ市の都市神ウトゥ神の聖域への巨大な銅像の設置など、都市神ウトゥのための活動に捧げられている。
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