最初の遠征(1618年–1620年)
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「デンマーク領インド」の記事における「最初の遠征(1618年–1620年)」の解説
最初の遠征は1618年にオーヴ・ゲデ提督の指揮下に出航したが、セイロンに到着するまでに2年かかり、途中で乗組員の半分以上を失った。1620年5月に到着した彼らが見出したのは、「皇帝」がもはや外国からの援助を望んでいない――3年前にポルトガルと和平協定を結んだ――という事実だった。さらに彼らは、「皇帝」が島の唯一の支配者でもなければ「この地で最も著名な王」でさえなかったという事も知った 。 だがここで、別行動をしていた貿易の責任者のローランド・クラッペから、インド本土で貿易権を得られるとの情報が届いた。 ローランド・クラッペは主力艦隊に1ヶ月先行して、商船エーレスンド(Øresund)で偵察航海を行っていた。エーレスンドはポルトガル船にカーライッカール沖で攻撃されて撃沈され、船員のほとんどは殺されるか捕虜になった。そのうち2人の頭部は、デンマーク=ノルウェー人への警告として海岸の杭の上に晒し首にされた。クラッペと13人の船員はなんとか生き延びたが、海岸でインド人に拘束され、タンジャーヴール・ナーヤカ朝(現在のタミル・ナードゥ州のタンジャーヴール)の君主(ナーヤカ)の元に連行された。ナーヤカは貿易に興味を持っていることが判明し、クラップは交渉を行って条約を結び、トランケバル(またはタランガンバディ)の村を譲り受け、そこに「石の家」(デンマーク人の城)を建設する権利と徴税の許可を得た 。これは1620年11月20日に署名された。
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最初の遠征
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1655年にモーガンは、バルバドス島からジャマイカ島に渡り、海賊船員を募集していた海賊船に入るが、その後は謎に包まれている。どうやら、仲間を集めて海賊稼業で金を貯めていたらしい。そのころのモーガンは仲間に慕われ、船長にまでなったようである。 その後、ジャマイカ島から西に移動し、カンペチェ湾やニカラグア沿岸で海賊行為を働いていたが、インディオからグラナダのことを聞いた。当時のグラナダは近隣の産物の集積地として繁栄していた。モーガンは全長190キロのサン・ホアン川を1週間以上かけて渡り、ニカラグア湖を5日かけて北上した後、月明かりを利用してグラナダを奇襲した。モーガンは逃げ遅れたスペイン人を教会の中に押し込め、海賊襲撃に便乗してスペイン人を襲った奴隷のインディオとともに略奪を行った。カヌーで川を上ってきたため財宝はあまり積み込めなかったが、この遠征により、ジャマイカでモーガンは有名になった。 その後、グラナダ遠征で得た富で、モーガンは農場を買い、30歳のときに、ジャマイカ島の総督になった叔父の娘と結婚した。
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