最初の通信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/20 14:54 UTC 版)
「チャイコフスキーとロシア5人組」の記事における「最初の通信」の解説
1867年、ルビンシテインは音楽院の楽長職をザレンバに譲る。その後、同年内にロシア音楽協会の指揮者職からも身を引いてバラキレフを後任に据えた。チャイコフスキーは既にオペラ『地方長官』から「性格的踊り」を協会へ提供する約束をしてしまっていた。そこで手稿譜を提出するに当たり、彼はバラキレフ宛の伝言を書き添えた。おそらくカンタータに対するキュイの批評のことも少しは頭をもたげたのだろう、メッセージの最後は「踊り」は演奏すべきでないと提言を行って欲しいという要望で締めくくられていたのである。 この頃にはひとつのまとまりとしてのロシア5人組は散り散りとなっていた。ムソルグスキーとリムスキー=コルサコフは息苦しさを感じるようになっていたバラキレフの影響下から脱し、作曲家として各々の方向へと進んでいた。バラキレフはチャイコフスキーが自らの指導下に入る可能性を感じていたのかもしれない。彼がサンクトペテルブルクから差し出した返事の中で、自分の意見は面と向かって伝え、要点を徹底するだけの時間を割いた方がよいのだが、「全くの率直な気持ち」で言うとして言葉巧みに世辞を述べる調子で付け加えている。それはチャイコフスキーが「完全に一人前の芸術家」であると思っているということ、そして今度のモスクワ訪問の折に一緒に作品について議論できることを楽しみにしている、という内容であった。 これらの書簡は続く2年間にわたりチャイコフスキーのバラキレフに対する関係性を決めるものだった。その期間が終わる1869年にはチャイコフスキーは28歳でモスクワ音楽院の教授を務めていた。最初の交響曲とオペラ1作を仕上げていた彼は、次に『運命』と題した交響詩の作曲に取り掛かった。はじめ、ニコライ・ルビンシテインの指揮によるモスクワでの演奏で曲に満足した彼は、曲をバラキレフに献呈するとともに楽譜を送付してサンクトペテルブルクで指揮してくれるように依頼を行った。しかし同地では気乗りのしない評価にとどまり、バラキレフはチャイコフスキーに宛てて『運命』の楽曲中でどこに弱みを感じるかを詳細な手紙の中に綴りつつ、同時にいくらか激励の言葉を添えた。バラキレフはさらに自分へと楽曲が献呈されることは「私にとってあなたの思いやりのしるしとして貴重なことです - そして大変に結構なことです。」というのである。自己批判の厳しいチャイコフスキーはこの言葉の裏にある真実を見過ごさなかった。彼はバラキレフの批判を受け入れて手紙のやり取りを続けたが、一方で『運命』の総譜は破棄してしまったのである。
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