リムスキー‐コルサコフ【Nikolay Andreevich Rimskiy-Korsakov】
リムスキー=コルサコフ
ロシアの作曲家。「管弦楽法の大家」として知られるように、色彩的で描写的な管弦楽法は、ロシア内外の近代作曲家たちに多大な影響を与えた。
軍人の家系に生まれ、幼少から音楽に親しんだ。サンクト・ペテルブルグの海軍兵学校に在学中、17歳の時に「力強い一団」の最年少のメンバーになる。海軍軍人としての職務の傍ら、歌曲や管弦楽曲などを発表してゆく。
71年にペテルブルグ音楽院の教授に迎えられ、作曲と管弦楽法のクラスを受け持つ(門下からは、グラズノフやストラヴィンスキー、プロコフィエフなど、多くの著名な作曲家が輩出される)。音楽院での最初の年月には、古典派をモデルとする室内楽曲やピアノ曲を書き続け、これまで疎かにしてきた伝統的な作曲技法を習得する。74年に軍務を退いて軍楽隊の監督に就き、指揮活動も開始。またロシア民謡の採集・編曲、グリンカのオペラの編集・出版などの仕事は、グリンカの和声法や楽器法を模範としたオペラ《五月の夜》や《ロシアの主題による弦楽四重奏曲》(79年)など、創作にも影響を及ぼす。
リムスキーコルサコフ
ニコライ・リムスキー=コルサコフ
(リムスキー=コルサコフ から転送)
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ニコライ・アンドレイェヴィチ・リムスキー=コルサコフ(ロシア語: Никола́й Андре́евич Ри́мский-Ко́рсаков, ラテン文字転写: Nikolai Andreyevich Rimsky-Korsakov, 1844年3月18日(ユリウス暦3月6日) - 1908年6月21日(ユリウス暦6月8日)は、ロシアの作曲家。「ロシア五人組」の一人で、色彩感あふれる管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残す。
注釈
- ^ ロシア人による交響曲としては1850年に完成したアントン・ルビンシテインの第1番や第2番などが先ではあるが、ロシア的要素は少ない。しかもルビンシテインは生粋のロシア人ではなくモルドヴァ人で改宗正教徒であった。
出典
- ^ a b “Rimsky-Korsakov (1)”. The New Grove Dictionary of Music and Musicians. 21 (2nd ed.). Macmillan Publishers. (2001). pp. 400-423. ISBN 1561592390
- ^ デイヴィッド・G・ヒューズ著 『ヨーロッパ音楽の歴史』 ホアキン・M・ベニテズ+近藤譲訳、朝日出版社、1984年、下巻、613頁。
- ^ J・アンネンコフ『同時代人の肖像 中』現代思潮社、1971年、311頁。
- ^ 出典:Russian Sacred Music by Rimsky-Korsakov
- 1 ニコライ・リムスキー=コルサコフとは
- 2 ニコライ・リムスキー=コルサコフの概要
- 3 生涯
- 4 作風と後世への影響
- 5 作品一覧
- 6 著作
リムスキー=コルサコフ
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「チャイコフスキーとロシア5人組」の記事における「リムスキー=コルサコフ」の解説
1871年、ニコライ・ザレンバがサンクトペテルブルク音楽院の楽長を退いた。後任のミハイル・アザンチェフスキーはより進歩的な音楽観を持つ人物であり、音楽院教育を生まれ変わらせるために新たな活力を必要としていた。そこでリムスキー=コルサコフに実践的作曲と楽器法の教授職と管弦楽の講座の指導役を打診する。かつて極めて強硬にアカデミズムへの抵抗を見せていたバラキレフは、敵陣営の中心に見方を配することに利点があるかもしれないとの考えから、彼が役職を受け入れるよう背中を押した。 そうした状況にもかかわらず、リムスキー=コルサコフは任用までに作曲家としての自らの技術的欠点を痛感するようになる。彼は後に「愛好家だった私は何も知らなかった」と記している。加えて、オペラ『プスコフの娘』を完成させると創作に行き詰りが生じてしまい、確かな音楽技法を手に入れることのみが作曲を継続できる唯一の道であると悟ったのであった。彼はチャイコフスキーに助言と指導を仰いでいる。リムスキー=コルサコフが音楽教育に対する態度を翻して熱心な自学を始めると、ロシアの遺産を捨ててフーガやソナタを書いているとして愛国主義者仲間は彼を非難した。一方、チャイコフスキーは道徳的な態度で彼を支え続けた。そしてリムスキー=コルサコフの行いを全面的に称賛すること、また彼の芸術に対する謙虚さと個性の強さの両方に感心していることを伝えたのである。 リムスキー=コルサコフが音楽院へ勤める前の1868年3月、チャイコフスキーは彼の『セルビア幻想曲』に関する論評を書いている。この作品の考察を行うにあたり、チャイコフスキーはそれまでに唯一聴いたことがあったリムスキー=コルサコフ作品である交響曲第1番と比較して次のように述べている。「その魅力的な管弦楽法(中略)構造の新規さ、そして分けても(中略)純ロシア的な和声進行の瑞々しさ(中略)がただちにリムスキー=コルサコフ氏の非凡な交響楽の才能[を示しているの]である。」チャイコフスキーの評はうまくバラキレフ一派の歓心を買うように言葉を選んで書かれており、事実その通りとなった。翌月に彼はサンクトペテルブルクのバラキレフ邸を訪れ、ロシア5人組の残りの面々と顔を合わせる運びとなった。後にリムスキー=コルサコフは次のように述懐している。 音楽院の申し子であるチャイコフスキーは、我々の仲間からは傲慢ではないにしてもかなり怠慢に見られていた。また、彼がサンクトペテルブルクを離れてしまっていたこともあり、個人的に面識を得ることは叶わなかった(中略)話してみると[チャイコフスキーは]愉快で気の合う人物であり、気取らない立ち居振る舞いと常に裏表のない誠意ある話のし方を心得ていた。初めて会った晩に[チャイコフスキーは]バラキレフのリクエストに応える形で、彼のト短調交響曲(交響曲第1番)の第1楽章を弾いて聴かせてくれたが、それは我々の好みに合ったものだったのである。チャイコフスキーの音楽院での訓練がいまだ彼と我々の間で無視できない壁となっていたものの、彼に対するかねてからの我々の考えは変化し、より共感的な心情が勝ってきていた。 さらに「続く数年間も、[チャイコフスキーは]サンクトペテルブルクを訪ねた折にはバラキレフ邸に顔を出すのが常であり、我々も彼に会っていた。」とリムスキー=コルサコフは綴っている。とはいえ、チャイコフスキーは5人組と伝統主義者らの双方から受け入れられることを望んでいたのかもしれないが、彼には両陣営から地理的に離れたモスクワに居ることにより独立を保ち、独自の方向性を見出すことが必要だったのである。これはとりわけ、リムスキー=コルサコフがチャイコフスキーの音楽院での訓練を指して「無視できない壁」と述べたこと、およびアントン・ルビンシテインがチャイコフスキーは偉大な西欧の巨匠の先例からあまりに遠く逸脱していると感じていたことに照らすと正しかった。チャイコフスキーは新しい態度や様式を自らの糧として、作曲家として成長を続けることができるようになっていたのである。弟のモデストは兄がロシア5人組の一部の作品のもつ「力と活気」に感銘を受けていたと記している。しかし、非常に均衡のとれた人物であったチャイコフスキーは、ザレンバとルビンシテインが大事にしていた最高の音楽や価値というものを完全に拒絶することもなかったのである。モデストの意見では、チャイコフスキーとサンクトペテルブルクの一団の関係性は「2つの友好的な隣国の間に居る状態(中略)同じ土俵に立てるように注意深く準備を怠らない一方、両者の異なる関心を嫉妬深く警戒している」ようであったという。
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リムスキー=コルサコフ
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リムスキー=コルサコフは、色彩的な管弦楽法の大家である。その作品もさることながら、著書『管弦楽法原理』が後世の作曲家に与えた影響は多大であり、その中にはラヴェル、ドビュッシーなども含まれる。極めて教科書的オーソドックスなリムスキー=コルサコフによって、管弦楽の全ての楽器が対等な地位を得るに至ったとされる。 直弟子であったレスピーギやストラヴィンスキーも、それぞれが管弦楽法の大家として知られる。特に、ストラヴィンスキーはリムスキー=コルサコフの理論を受け継ぎつつも、『火の鳥』、『ペトルーシュカ』などにおいてさらに色彩的な技法を開拓し、これらを『春の祭典』によって昇華させた。
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リムスキー=コルサコフ
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「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「リムスキー=コルサコフ」の解説
「ピョートル・チャイコフスキー」および「チャイコフスキーとロシア5人組」も参照 1884年、44歳となるピョートル・チャイコフスキーは1878年の結婚の失敗以来悩まされてきた社交嫌いと落ち着きのなさを表に出すようになってきており、それによってロシア、西ヨーロッパ中を巡る旅に出る頻度も増加していた。1884年3月にはロシア皇帝アレクサンドル3世が彼に聖ウラディーミル勲章(英語版)(第4位)を与えた。世襲制であるこの貴族階級を得て、さらに皇帝がチャイコフスキー作品を私的に鑑賞することが決まった。皇帝からの受勲は公的に認められたという可視的な証明となり、チャイコフスキーが婚姻の状況に絡む恥辱から立ち直るのを助けるものだった。1885年1月にサンクトペテルブルクでハンス・フォン・ビューローの指揮の下、組曲第3番が成功を収めたことで、彼の心の中では完全な回復が終わっていたのかもしれない。チャイコフスキーはパトロンのナジェジダ・フォン・メックに宛てて次のように書き送っている。「かつてこれほどまでの大成功を目にしたことがありません。目にしたのは客席全体が感動し、私に感謝する様子だったのです。このような瞬間は芸術家の生涯を彩る最上の装飾です。これがあるからこそ、生きて仕事をする価値があるのです。」各紙も一様に好意的であった。 いまだに外部での付き合いに軽蔑感を抱いていたものの、チャイコフスキーは2つの理由から社交の場に出るようになっていた。ひとつは自らの名声が高まっていたこと、もうひとつはロシア音楽を広めることを自らの義務と考えていたことである。この目的のために、彼は自らの門下を巣立ちモスクワ音楽院の院長になっていたセルゲイ・タネーエフに力を貸し、学生の試験に同席したり幾度かにわたり様々な職員の敏感な関係を取り決めたりした。また、チャイコフスキーは1889年から1890年にかけてのシーズンにはロシア音楽協会モスクワ支部の支部長を務めている。彼は在職中にヨハネス・ブラームス、アントニン・ドヴォルザーク、ジュール・マスネといった国際的な著名人を数多く指揮者として招いている。チャイコフスキーは自らの作品と客演指揮者としての役割の両面からロシアの音楽の普及を行った。1887年1月、モスクワのボリショイ劇場で行われた自作のオペラ『チェレヴィチキ』の初演において、彼は急遽最初の3回を代打として指揮台に上ることになった。自作の指揮を自ら行うことがロシア国外における成功の鍵にある程度はなってくると考えていた彼は、短くとも10年来にわたり指揮を習得したいと考えていたのだった。『チェレヴィチキ』公演期間の1年のうち、チャイコフスキーはヨーロッパ中、ロシア中でひっぱりだこであったお蔭で生来のあがり症を克服でき、自信に弾みをつけることができたのである。 チャイコフスキーとリムスキー=コルサコフの関係性は1887年11月の彼のサンクトペテルブルク訪問までに変遷をたどっていた。ロシア5人組の一員であったリムスキー=コルサコフは作曲家としては本質的に独学であった。チャイコフスキーが学校教育を受けていたこと、そして5人組が信奉する音楽の哲学に賛同しなかったことを背景に、リムスキー=コルサコフは彼に疑いの眼差しを向けていた。しかし、1871年にサンクトペテルブルク音楽院の教授として任用されることになったリムスキー=コルサコフは、その役割を担うには自分に備えが足りないと知ることになる。また同時に彼の作曲活動は袋小路に陥っており、自らの創作の道がそれ以上先に続かないものであることを認識したのであった。彼は自らの状況をかいつまんで手紙にしたためてチャイコフスキーに送り、何をすべきなのかと問うた。手紙はその痛ましさによりチャイコフスキーの「心を深く動かし、驚かせた」 。後にチャイコフスキーがフォン・メックに伝えたとおり「もちろん彼には勉学が必要だった。」 1871年から1874年にかけて音楽院で教壇に立つ傍ら、リムスキー=コルサコフは徹底的に西欧の作曲技法の基礎をさらい、アカデミックな訓練が作曲家としての成功に及ぼす価値を確信するに至った。チャイコフスキーは態度を翻したリムスキー=コルサコフを尊敬すべき仲間ととらえるようになり、大親友とはいかないまでも親しい間柄にはなった。5人組の他のメンバーがリムスキー=コルサコフの態度の変化に対して敵意を示した際、チャイコフスキーは道徳的な態度で彼を支え続け、リムスキー=コルサコフの行いを全面的に称賛すること、また彼の芸術に対する謙虚さと個性の強さの両方に感心していることを伝えたのである。また1876年以来、チャイコフスキーはサンクトペテルブルクを訪れた折にはリムスキー=コルサコフの家に立ち寄るのが常であった。ある時には、チャイコフスキーからモスクワ音楽院の院長にしてやってもいいと申し出があったが、これはリムスキー=コルサコフが辞退している。 チャイコフスキーの称賛はリムスキー=コルサコフの作品へと及んだ。彼はリムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』を「楽器法の途方もなく偉大な作品」と考え、その作曲者を「今日で最大の巨匠」と呼んだのである。チャイコフスキーは日記の中で次のように明かしている。「[リムスキー=]コルサコフの『雪娘』に目を通して彼の熟達ぶりに驚かされるばかりか、(恥ずかしながら認めると)妬ましささえ覚えた。」
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リムスキー=コルサコフと同じ種類の言葉
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