登頂史
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特に断りがない限り、「登頂」とは主峰の登頂のことを指す。 1954年 - ドイツのカール・ヘルリコッファー(Karl Herligkoffer)が南西からの登頂に挑戦するが、嵐と寒さのために断念する。 1957年6月9日 - マルクス・シュムック率いるオーストリアの登山隊4人(ヘルマン・ブール、フリッツ・ウィンターシュテラー、クルト・ディムベルガー)によって初登頂(無酸素)。彼らは5月29日に最初のアタックをかけ前衛峰に達したが、すでに夕刻となっており降雪もあるため撤退した。その後、6月9日に再挑戦し登頂に成功した。隊員の一人であるブールは、登頂の数週間後に近くのチョゴリサ峰(7654 m)の登山中に命を落としている。 1975年7月28日 - ポーランド隊の5人が中央峰に初登頂するが、下山中に3人が死亡。 1984年7月 - イェジ・ククチカ、ヴォイテク・クルティカが北峰、中央峰、主峰の縦走に成功。アルパインスタイル。 1988年3月6日 - ポーランド隊のマチエイ・ベルベカが前衛峰に到達し冬季カラコルムで初の8000 mラインを突破するが主峰の登頂には失敗。 1991年7月30日 - 小西浩文、山野井泰史ら8人が無酸素登頂。 1995年7月20日 - 戸高雅史、北村俊之、服部徹の3人がアルパインスタイルで北峰~中央峰~主峰の縦走に成功。 1998年7月29日 - エリック・エスコフィエ、パスカル・ベジェールが頂上稜線で暴風に飛ばされ遭難死。 2006年にはオーストリアのマークス・クロンタラーが登頂するも下山中に遭難死。翌2007年にマークスの兄のゲオルグらがマークスの遺体を収容した。8000メートル峰からの遺体収容は二次遭難の危険性から行わないのが普通だが、遺体の収容に成功した。 2008年7月31日 - 竹内洋岳がクラシックルートを無酸素ワンプッシュで登頂した。 2013年3月5日 - ポーランド隊のアダム・ビエレツキら4人が冬季初登頂に成功するも、マチエイ・ベルベカ、トマス・コワルスキの2名が下山中に行方不明に。
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登頂史
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マチャプチャレへの登頂は過去に一度もないと考えられている。唯一記録にある登山は、1957年のジミー・ロバーツ(英語版)中佐率いるイギリス隊によるものである。隊員のウィルフリッド・ノイス(英語版)とA・D・M・コックスは、北稜を経由して山頂からの距離にして150メートル、標高6,947メートルの地点まで到達した。しかし、登山隊はネパール国王に対し頂上には足を踏み入れないと約束していたため、山頂までは到達していない。この登山を最後に、マチャプチャレへの登山の許可は出されていない。 この山は「神聖な山」とされているが、どの神に対してどのような形で神聖とされているのかは不明確である。 1980年代にニュージーランドの登山家ビル・デンツ(Bill Denz)が、許可を得ずに入山し、登頂に成功したという報道がある
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登頂史
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ウィキメディア・コモンズには、パリラプチャに関連するカテゴリがあります。 2006年:山野井泰史が北壁登攀に挑戦するも敗退。
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登頂史
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クンヤン・チッシュでの最初の登山は1962年に行われたが、7月18日の雪崩で2人の隊員が死亡したために中止された。2人の遺体は回収されなかった。次の挑戦は1965年に、東京大学のメンバーを中心とした日本隊によって行われた。彼らはクンヤン・チッシュの南稜を選択したが、7,200メートル地点で狭い尾根が崩壊し、1人が死亡した。初登頂は、1971年にアンジェイ・ザヴァダ(英語版)率いるポーランド隊によって達成された。彼らはプマリチッシュ氷河から南稜線までの長いルートを登った。しかし、隊員の一人がクレバスに滑落して死亡した。2番目、かつこれまでで最後の登頂は、1988年7月11日にイギリスの登山家、マーク・ロウとキース・ミルンによるもので、彼らは北西の支脈から北稜に登った。このルートは1980年に最初に試みられ、その後1981、1982、1987年にも試みられた。Himalayan Indexには、2000年と2003年に3回登頂に挑戦した記録がある。 北峰は、1979年7月11日に北海道大学の遠征隊が北側の尾根から初登頂した 。 東峰は、2003年から4回登頂に失敗した後、2013年7月19日にオーストリア/スイス隊(ハンスイェルク・アウアー(英語版)、マティアス・アウアー、サイモン・アンタマッテン(ドイツ語版))によって初登頂された。このときは南壁から登頂された。 西峰は未登頂である。
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登頂史
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マモストン・カンリは、あまりにも奥地に位置しているため、また、当地の政治的、軍事的に不安定な状況もあって、未だに訪れる者は少ない。ヨーロッパ人による最初の遠征は、1907年にアーサー・ニーヴ(英語版)とD・G・オリヴァー (D. G. Oliver) が試みた。 その後は長らく、外国人は立ち入り禁止とされた。
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ヌプツェの初登頂(主峰のヌプツェI)は、1961年5月16日にイギリスの遠征隊によってなされ、デニス・デイビスとシェルパのタシが登頂に成功した。 2017年4月30日、エベレスト西稜からローツェへの縦走を計画していたウーリー・ステックが、高所順応期間にヌプツェを登っている途中、滑落して約1000メートル落下し死去した。
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登頂史
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1984年 - 日本登攀クラブ米井輝治らが、トール西壁を初登攀。 1988年 - 山野井泰史(当時23歳)が8日間で西壁の単独初登攀。 2006年 - アメリカ合衆国の登山チームが、クライミングロープを使って急な斜面などを安全に降りる登山技術「懸垂下降」の世界記録を樹立。
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登頂史
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1984年:米井輝治、他2名の日本登攀クラブ隊が日本人初登。 1990年:山野井泰史(当時25歳)が、冬季単独初登。
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登頂史
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1950年、フランス隊が東側と北側を偵察するが容易なルートを見出せなかったため撤退。フランス隊は近くのアンナプルナに転進して8000メートル峰初登頂を果たした。 1953年から1958年にかけて、5つの遠征隊が北壁「梨ルート」から挑むが、いずれも敗退。1954年のアルゼンチン隊は7000 m地点の岩場をダイナマイトで爆破してキャンプ地を作る荒業に出ている。 1959年、オーストリア隊が北東稜から登頂を目指すが断念。 1960年5月13日 - スイス・オーストリア隊のクルト・ディムベルガーらが北東稜から初登頂。無酸素。 1970年10月20日 - 川田哲二、ラクパ・テンジンが登頂。(同志社大学山岳会) 1978年春 - 重野太肚二(たつじ)、小林利明、吉野寛ら日本隊(隊長:雨宮節)が南稜ルートからの初登頂。 1978年秋 - 山田昇らが南東稜ルートからの初登頂。隊員4人が遭難死した。 1981年6月2日 - 禿博信がシェルパレス・ワンプッシュで登頂。 1982年秋 - カモシカ同人隊が北壁「梨ルート」初登攀。12月13日- 小泉章夫とニマ・オンチューが登頂(北海道大学遠征隊)。当時のネパール政府が定めたヒマラヤ冬期期間における初の8000メートル峰登頂。 1985年1月21日 - イェジ・ククチカとアンジェイ・チョクが冬季初登頂。 南壁の登攀記録 1977年春 - ラインホルト・メスナー、ペーター・ハーベラーが6300 mまで。 1981年秋 - ユーゴスラビア隊3人が南壁右側をアルパインスタイルで登り、6日かけて7300 m地点まで登攀、南東稜に合流した。さらに4日かけて南東稜沿いに7950 mまで登るが、天候が悪化したうえストーブが故障。登頂を断念し、装備を残したままノーマルルートを下降した。麓の村までテントなしでさらに5日かかった。最後の6日間は食料が尽きていた。 1986年秋 - ポーランド隊が西側を登り、7500 m付近で南西稜に抜けたが、悪天候と物資の不足により登頂せずに下山した。 1999年秋 - トマジ・フマルが南壁中央をアルパインスタイルで単独登攀。7200 mまで登り、ロックバンドを回避して右側にトラバース、7300 m地点で南東稜と合流した。そのまま8000 mまで登るが消耗が激しく、登頂せずにノーマルルートを下降した。
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登頂史
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ローツェの登頂は、1956年5月18日にエルンスト・ライスとフリッツ・ルフジンガーが率いるスイスの登山隊によって成し遂げられた。1970年5月12日にはオーストリア隊のZepp MaierlとRolf Walterがシャール峰への登頂に成功し、2001年5月23日にロシアのEugeny Vinogradsky・Serguei Timofeev・Alexei Bolotov・Petr Kuznetsovの4人が中央峰に登頂している。 1988年12月31日に、ポーランドの登山家クシストフ・ヴィエリツキが、ローツェの冬季初登頂に成功した。 2003年10月までに243人が登頂に成功し、イェジ・ククチカら11人が命を落としている。
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登頂史
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マカルーは、急な斜面や切り立った峰などから、世界でも屈指の登りづらい山として知られている。特に西壁は、デスゾーン手前から山頂付近まで部分的にオーバーハングした垂直の岩壁が続くという難しいルートのため、イェジ・ククチカ、山野井泰史、ヴォイテク・クルティカ、マルコ・プレゼリ、スティーブ・ハウスといった一流クライマーの挑戦を退け続け、核心部は未踏となっていることから「ヒマラヤ最大の課題」とまでいわれている。 1954年春 - マカルー登頂への最初の試みが、アメリカの登山隊によって行われた。彼らは南東からのルートを選択したが、7100 m地点で嵐に遭い失敗に終わっている。同じ年にジャン・フランコ(フランス語版)率いるフランスの登山隊が北東側からのルートで挑戦するが失敗。 1955年 - 前年に失敗したフランスが、ジャン・フランコ(フランス語版)隊長の下に再挑戦。5月15日にリオネル・テレイ(フランス語版)とジャン・クジー(フランス語版)の2人が初登頂、翌日はフランコ(フランス語版)隊長とともにギド・マニョーヌ(フランス語版)とサーダーのギャルツェン・ノルブが、翌々日にはジャン・ブーベ、セルジュ・クペ、ピエール・ルルー、アンドレ・ヴィアラと、隊員の8人全員およびサーダーの合わせて9人が登頂するという、当時としては異例の、そして完全なる成功であった。 1970年 - 田中元と尾崎祐一が南東稜ルート初登頂。日本山岳会東海支部隊。原真が登攀隊長を務めた。 1971年 - ロベール・パラゴ(フランス語版)が率いるフランス隊が切り立った西稜に挑み、ヤニック・セニュール(フランス語版)とベルナール・メレ(フランス語版)の両名が初登攀に成功。 1975年10月6日 - スロベニアのマリヤン・マンフレダが無酸素初登頂。 1981年 - ポーランド人のイェジ・ククチカが新ルートで単独登頂した。 1982年 - 韓国の許永浩が山頂でククチカの残置物を発見し登頂を証明した。 1986年 - イタリア人のラインホルト・メスナーが登頂。 1991年10月7日 - ベルニナ山岳会隊の石坂工、山野井妙子(旧姓・長尾)が無酸素登頂に成功するも、下山中に嵐に巻き込まれたため、8100 m地点で二日間の露営を余儀なくされ、石坂隊員が凍死、山野井隊員が凍傷により手足合わせて18本の指切断の重傷を負う。 1995年 - 日本山岳会隊の竹内洋岳が東稜下部を初登攀。 1997年 - ロシア隊のセルゲイ・ボトロフら5人が西壁ルート初登攀。 2009年 - シモーネ・モロ(イタリア)とデニス・ウルブゴ(カザフスタン)が冬季初登頂
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登頂史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 04:11 UTC 版)
1954年の初登頂は、ネパールからナンパ・ラ経由でチベットに不法越境して行われた。当時、ナンパ・ラを越える通商はよく行われており、違法だったが黙認されていた。その後も、ナンパ・ラを経由した無許可登山は繰り返し行われた。中国が正式に登山許可を出し、規制を強化したのは1987年になってからである。ネパールがチョ・オユー登山を解禁したのも遅く、1981年になってからである。その後、登りやすい8000 m峰という評判が広がったため登山者が急増した。2012年3月時点での登頂者数は延べ3138人で、8000 m峰の中ではエベレストに次いで2番目に多い。 1954年10月19日 - (初登頂) - J.ヨヒラー、パサン・ダワ・ラマ、H.ティッヒー。無酸素。 1978年 - エドゥアルト・コプルミュラーとアイロス・フルトナーが南東壁初登頂、アルパインスタイル。無許可登山のためネパール入国禁止処分となる。登頂自体も一部で疑問視されている。 1983年 - ラインホルト・メスナーら3人が西稜からアルパインスタイルで登頂。 1985年2月12日- (冬季初登頂) - マチェイ・ベルベカ、マチェイ・パフリコスキ、(二次隊 アンジェイ・ハインリフ、イェジ・ククチカ 2月15日登頂)。 1988年2月6日 - (冬季単独初登頂) - フェルナンド・ガリド。8000メートル峰初の冬季単独登頂。 1987年9月21日 - 高橋和之が山頂からパラグライダーで下山。5200 m地点に着地。当時、地上からのパラグライダー飛行の高度記録となる。 1990年 - (南西壁初登頂) - ヴォイテク・クルティカ、ジャン・トロワイエ、エアハルト・ロレタン、アルパインスタイルで1日で登頂。 1993年2月10日 - (冬季女性初登頂) - マリアンヌ・シャピュイザ。女性初の冬季8000メートル峰登頂。 1994年 - カルロス・カルソリオ ベースキャンプから18時間45分の最速登頂記録9月22日 - (南西壁単独初登頂) - 山野井泰史 9月24日 - (南西壁登頂・無酸素) - 長尾妙子、遠藤由加 2004年9月27日 - マーク・イングリスが両足義足により登頂。 2006年10月2日 - パヴレ・コジェック(英語版)が南西壁新ルートを単独登頂。コジェックは中国武装警察隊によるナンパ・ラ銃撃事件を目撃し、帰国後に証拠写真を公開、この事件が知られるきっかけとなった。
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登頂史
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「クンバカルナ (山)」の記事における「登頂史」の解説
クンバカルナ・ジャヌーは、1957年にギド・マニョン(Guido Magnone)が最初に偵察し、1959年にジャン・フランコ(Jean Franco)が率いるフランスのチームが初めて登頂を試みた。1962年に、フランスのアルピニスト、リオネル・テレイ(Lionel Terray)の率いるチームが登頂に成功し、頂上に到達したのはルネ・デメゾン(René Desmaison)以下シュルパを含む4名(4月27日)、続いて5名(4月28日)であった。 彼らの登頂ルートは、山頂の南にあるヤマタニ氷河から始まり、王座(山頂の南にぶら下がっている氷河)として知られる大きな高地への遠回りのルートをたどり、南東の尾根を経由して山頂へ登った。 巨大で急峻な北壁(いわゆる「化け物の壁」)は、1976年に小西政継の率いる日本チームが、壁の左側から東の尾根に至るルートで初めて登頂に成功した。北壁の上部にある急なヘッドウォールは避けた(ニュージーランドのチームは前年北壁を登ったが、山頂には達しなかった)。スロベニアの登山家、トモ・チェセンは1989年に北壁のより直接的なルートで単独登頂に成功したと主張したが、この主張は登山コミュニティの多くは疑わしいと考えている。 2004年、前年の試みが失敗した後、アレクサンダー・オディンツォフ(Alexander Odintsov)が率いるロシアのチームは、ヘッドウォールを通る直接の北壁ルートを登るのに成功した。これには、ビッグウォール登山技術(Big wall climbing)の援助が、7500mを超える距離に持続的に必要であったが、大きな成果であったといえる。しかし、ロシア・チームが壁に大量の装備を残したことを知って登山コミュニティの一部は動揺し、そのようなルートでの適切なモダン・スタイルの登山は何かについての議論を引き起こた。こうした論争にもかかわらず、ロシア・チームはこの登山成功でピオレドール賞を獲得した。 「ヒマラヤ・インデックス」には、ジャンヌ登頂に12を活動がリストされていているが、そこにに記載されていないものもあるかもしれない。
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登頂史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:34 UTC 版)
ルナグ・リは、2018年10月25日にオーストリア人登山家のダーフィット・ラマによって初登頂された。ラマは単独登山だった。ラマは以前に、アメリカ人登山家のコンラッド・アンカーとともに、2015年11月と2016年秋の2回挑戦し、失敗していた。2回目の挑戦の際にアンカーは心臓発作を起こした。その後、ラマは1度単独で挑戦したが、標高6,700メートル地点で撤退していた。
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登頂史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 19:25 UTC 版)
1950年代から1960年代にかけてガウリシャンカールへの登頂が試みられたが、天候や雪崩、登攀困難な氷壁などのため、全ての登山隊が登頂に失敗した 。1965年から1979年までは、公式に登頂が禁止されていた。 1979年に登頂が許可され、5月8日にアメリカとネパールの登山隊が西壁を経由して初登頂に成功した。このルートは、技術的に非常に難しいものだった。ネパール観光省の登頂許可証では、両国から同数の登山者が登頂チームに参加しなければならないと規定されており、初登頂にはアメリカ人のジョン・ロスケリー(英語版)とネパール人シェルパのドルジェが参加した。 同年、ピーター・ボードマン(英語版)率いるイギリスとネパールの登山隊が、長く困難な南西尾根からの登頂に挑戦した。11月8日、ボードマン、ティム・リーチ、ガイ・ニードハルト、ペンバ・ラマの4人は、南のガウリ(7,010メートル)に到達した。イギリス隊はシャンカールへは行かなかった。 1983年にスロベニアの登山隊が登頂した。11月1日にSlavko Cankar(隊長)、Bojan Šrot、Smiljan Smodišが、その3日後にFranco PepevnikとJože Zupanが到達した。スロバキア隊は南壁の左側を登り、南西稜に到達した後、ガウリー山頂へ進んだ。スロベニア隊もまた、シャンカールへは行かなかった。 ヒマラヤン・インデックスによれば、主峰シャンカールへの登頂は、1979年の初登頂の後2回行われている。2回目の登頂は1984年春、ワイマン・カルブレスとアン・カミ・シェルパが南西面の尾根に設けられた新ルートを使って行った。3回目の登頂は、1986年1月、韓国のチェ・ハンジョとシェルパのアン・カミによって行われ、初の冬期登頂となった。 2013年秋、4人のフランス人登山家によって、南壁の完全な登頂が実現した。10月21日午後4時に南壁の頂上に到達したが、その先のガウリー山頂(7,010メートル)への登頂は断念した。南壁の下まで降りるのに11時間を要した。
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登頂史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/25 17:16 UTC 版)
1961年3月13日: ニュージーランドのヒラリー隊が初登頂。 1979年4月30日: ジェフ・ロウ(英語版)が南壁単独初登攀。 1979年10月21日-10月23日: フランス隊が北稜初登攀。 1985年: 山岳同志会の坂下直枝、有明正之が西壁初登攀。 1992年: 山野井泰史(当時27歳)が西壁(6812m)を冬季単独初登壁。 アマ・ダブラム
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