登頂、建造物建設およびその利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 03:27 UTC 版)
「ブロッケン山」の記事における「登頂、建造物建設およびその利用」の解説
ブロッケン山への最初の登頂は、1572年にシュトルベルク(英語版)の医者であり植物学者でもあるヨハン・タール(ドイツ語版)(Johann Thal)により記録されている。彼は自著「シルバ・ヘルシニア」(Sylva Hercynia)にてブロッケン山岳地帯の植生について記している。1736年、シュトルベルク・ヴェルニゲローデ(英語版)伯クリスティアン・エルンスト(英語版)が山頂に「ヴォルケンホイスヒェン」(Wolkenhäuschen:「雲の小屋」)という保養施設を建設した。この建物は現在も保存されている。彼はまた、ブロッケン山の南側斜面に息子の ハインリッヒ・エルンスト(英語版)にちなんで、「ハインリヒスヘーエ」(Heinrichshöhe)という名の山小屋を建設した。ブロッケン山の最初の宿泊施設は1800年頃に建設された。 1821年から1825年にかけて、ハノーファー王国の測地測量の一環として、テューリンゲン森にあるグローサー・インゼルスベルク(英語版)山、およびゲッティンゲン近郊のホーアー・ハーゲン(英語版)山との間で三角測量を行うために、数学者のカール・フリードリヒ・ガウスがブロッケン山を照準線を得るために利用した。1850年にプロイセン王国の参謀が実施した測量により、ブロッケン山の標高が現在知られる1,141.1mであることがわかった。ブロッケン山にあった最初の山小屋が火災により焼失したため、1862年に新しいホテルが開業した。1890年、ゲッティンゲン大学のアルベルト・ペーテル(英語版)教授により、シュトルベルク・ヴェルニゲローデ(英語版)伯オットーの許可を得て、4,600 m2 (50,000 sq ft)の敷地に植物園ブロッケンガルテン(英語版)が設計された。これはドイツ最初の高山植物園である。 1899年3月27日、狭軌鉄道のブロッケン鉄道線(英語版)が開業した。同路線の終点ブロッケン(英語版)駅は標高1,125mとドイツ最高地点の駅である。ブロッケン鉄道線の軌間は1,000 mm (3 ft 3 3⁄8 in)である。1935年に、帝国郵便によって可動式送信機を用いて最初のテレビ放送が実施され、翌年には世界初のテレビ塔(電波塔も参照)がブロッケン山に建設され、1936年に開催されたベルリン・オリンピックの生放送を送信した。テレビ塔は、第二次世界大戦が勃発し当局が放送を中止した1939年まで稼動していた。 1937年にブロッケン山は、ヴュルムベルク(英語版)、アクターマンズヘーエ(英語版)、およびブルヒベルク(英語版)の山地とともに、「オーバーハルツ(ドイツ語版)(高地ハルツ)自然保護区」に指定された。 1945年4月17日のアメリカ空軍の爆撃のため、ブロッケン・ホテルと気象台が破壊されたが、テレビ塔は破壊を免れた。1945年から1947年までの間、ブロッケン山はアメリカ軍に占領された。領土交換(ヤルタ会談に記載)の一部として、ブロッケン山はソ連占領地域に移行された。しかしながら、1947年にアメリカ軍が撤退するまでに、再建された気象台およびテレビ塔はアメリカ軍によって無力化された。 1949年に、ブロッケン・ホテルの遺構は爆破された。1948年から1959年までの間、ブロッケン山の一部地域は観光客に戦後再び開放された。通行証が必要であったが、無償で交付された。1961年8月以降、東ドイツ政府は、ブロッケン山が西ドイツと隣接する国境地域となることから、立入禁止区域であると宣言したため、一般人には開放されなくなった。大規模な軍事施設が山頂および周辺地域に建設された。山頂および周辺地域の警備は「第7シールケ(英語版)国境警備隊」(7. Grenzkompanie Schierke)が管轄しており、山頂部に小隊規模の部隊を駐屯させていた。部隊の収容のために、ブロッケン(英語版)駅が使用された。ソビエト連邦の赤軍もまた駐屯地の大部分を使用していた。1987年、ブロッケン鉄道線は軌道の整備状況悪化のため貨物輸送を中止した。 ブロッケン山は大規模な監視や諜報に用いられた。山頂には2つのリスニングポスト(受信施設、通信傍受施設)が存在した。そのうちの1つはソビエト連邦軍の諜報機関である参謀本部情報総局(GRU)に属しており、ソビエト連邦がドイツに保有する最西端の前哨基地であった。もう1つは東ドイツの国家保安省(シュタージ)の第3局に属していた。リスニングポストの暗号名は「エニセイ」(Yenisei)および「ユリアン」(Urian)であった。1973年から1976年までの間に、東ドイツ国営テレビ放送局である「ドイツテレビジョン放送」(GDR-TV)の第2チャンネル向けに新しいテレビ塔が建設された。今日ではドイツの公共放送局である「第2ドイツテレビ」(ZDF)の放送に用いられている。東ドイツの国家保安省は1985年まで古いタワーを使用し、現在は博物館となっている新しい建物に移った。その後、一帯を封鎖するため、ブロッケン山の山頂部全体を、重量2.4トン高さ3.60メートルの大きさをもつ2,318ものコンクリートの壁で覆った。一帯は1989年12月3日まで立入が禁止された後、ソビエト連邦軍の兵営およびリスニングポストのドームとともに、壁は取り壊されている。古いタワーはロッジに隣接しているが、今日はドイツ気象局の観測拠点として再び利用されている。 ベルリンの壁崩壊の後、1989年12月3日に始まる市民によるデモのハイキングが行われ、その期間中にブロッケン山に再び民間人が足を踏み入れた。東西ドイツ統一に伴い、国境警備施設や軍事施設は1990年以降段階的に縮小されていった。1994年3月30日に、ブロッケン山からロシア軍が最終的に撤収した。ブロッケン山の山頂地域は数百万ユーロの費用を投じて再自然化され、現在はハルツ地方を訪れる観光客にとっての人気の観光地となっている。 1939年から保護地区に指定され、何十年もの間交通が制限されていたこともあり、ブロッケン山の独特の気候によって優れた自然条件が形作られている。山塊の一部は、ドイツではきわめて珍しい原生林に覆われており、オオヤマネコ、ヤマネコ、ヨーロッパオオライチョウといった絶滅危惧種や近絶滅種にとって最適な条件となっている。このため、ブロッケン山は1990年に国立公園に指定された。
※この「登頂、建造物建設およびその利用」の解説は、「ブロッケン山」の解説の一部です。
「登頂、建造物建設およびその利用」を含む「ブロッケン山」の記事については、「ブロッケン山」の概要を参照ください。
- 登頂、建造物建設およびその利用のページへのリンク