帝国郵便
帝国郵便(神聖ローマ帝国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/15 04:44 UTC 版)
「帝国郵便」の記事における「帝国郵便(神聖ローマ帝国)」の解説
皇帝ルドルフ2世は機能停止に陥った郵便を再建させるためタシス家に代わって帝国の郵便を統括する長官を探し始めた。しかし1579年にレオンハルト・ファン・タシス1世がネーデルラントの郵便長官に復職してスペインからの補助金支給も断続的に再開されたため、引き続きタシス家が帝国内の郵便を任されることになった。しかし郵便事業の世襲は認められなかった。1596年に皇帝はレオンハルト・ファン・タシス1世を帝国における郵便長官とし、帝国内の全ての郵便事業を委ね、諸侯にもこれを認めるよう命じた。翌1597年に皇帝は郵便事業が国王大権(レガーリア)に属するとし、他のあらゆる郵便事業を禁じた。郵便事業は国家体制に組み込まれ、この時点で「帝国郵便」が成立したと考えることができる。1806年の帝国解散まで帝国郵便は帝国書記局に属し、皇帝の保護の元で存続した。 1608年にタシス家は帝国騎士からフライヘル(男爵)に昇格した。諸侯は郵便で送った機密情報が皇帝に筒抜けになることを恐れて帝国郵便に反発した。実際に帝国郵便は後に皇帝の検閲網として活用された。また皇帝は古代ローマ帝国の法である「クルスス・プブリクス」(ローマ帝国の駅伝制度)に遡って郵便が国王大権に属するとしたが、神聖ローマ帝国が「クルスス・プブリクス」を継承しているという解釈が妥当なのかは、法学界とジャーナリズムを巻き込んで数世紀にわたって論じられた。 1611年にレオンハルト1世の息子ラモラール1世が帝国郵便長官に就任した。翌1612年にルドルフ2世が死ぬと弟のマティアスが皇帝に即位し、ラモラールの長官職を承認した。しかし皇帝やスペインからの補助金は滞りがちであり、運営資金の問題は解決していなかった。加えて法的には郵便事業世襲を認められていないタシス家は権益を確保するため大量の内部留保を蓄えるようになっていた。このため郵便の利益は事業に還元されなかった。ラモラール1世は利益を内部留保に回すこと無く世襲を確保する必要に迫られ、郵便長官職をタシス家のレーエン(封土)とすることを皇帝に懇願した。授封は1615年に認められ、同時に補助金は打ち切られて帝国郵便は独立採算制に移行した。そして皇帝直轄の郵便にこだわるハプスブルク家は自領オーストリアを帝国郵便の管轄から外し、新たにオーストリア宮廷郵便が設立された。1624年、タシス家はグラーフ(伯爵)に昇格して諸侯に列した。所属する帝国クライスはクールラインクライスだった。 帝国郵便の本線はスペイン領ネーデルラントのブリュッセルを起点としてとしてナミュール、バストーニュ、リーザー、ヴェルシュタイン、ラインハウゼン、アウクスブルクを経てインスブルック、そしてトレントへと至るものだった。この経路は有事にフランスを避けてスペインと連絡するためにも使われた。競合する郵便事業は禁止されていたが、帝国自由都市が古くから持つ独自の通信網の維持は許されていた。 17世紀初めまでの郵便路線網は南ドイツからライン地域に偏っていたが、1612年には二本目の本線が設立された。これはブリュッセルからケルン、フランクフルト、アシャッフェンブルク、ニュルンベルクを経てボヘミアへと至るものであり、フランクフルトからライプツィヒ、およびケルンからハンブルクへ至る支線も作られた。こうして1615年の授封をきっかけに帝国郵便はその路線を神聖ローマ帝国全体に拡大した。しかし1618年に始まった三十年戦争によって郵便路線網は甚大な被害を受け、帝国郵便路線は一時全て麻痺した。1644年に講和会議が始まると帝国郵便は再建され、講和会議開催地のミュンスター、オスナブリュックを経由するケルンからハンブルクの路線が新たに設置された。 1648年のヴェストファーレン条約以降、帝国郵便長官伯ラモラール2世とその子孫たちは北ドイツのプロテスタント諸侯による領邦郵便と対抗することになった。オランダもいくつかの選帝侯に接近し、帝国郵便網を切り崩していった。北ドイツ諸侯に排除された帝国郵便は帝国宮内法院に苦情を申し立てた。帝国宮内法院は領邦郵便の廃止を諸侯に指示し、皇帝の郵便レガーリアへの干渉を直ちに辞めることを要求した。しかし事実上の領邦郵便であるオーストリア宮廷郵便や帝国自由都市の郵便は皇帝の許可の元で堂々と営業していることから、諸侯は郵便事業が皇帝のレガーリアではなくヴェストファーレン条約で認められた領邦高権に属すると主張した。このような事情から領邦郵便を廃止させることはもはや不可能となっており、ブランデンブルク領邦郵便は非公式ながら認められた。帝国郵便は他の郵便との連携・協調を迫られた。1663年に帝国郵便はイングランド郵便と契約し、20年間イングランドの書信を帝国内・北欧・東欧・イタリアまで輸送することになった。アントワープでスペインとイタリア行きの書信が仕分けられた。 1650年にタシス家は皇帝の許可を得て家名をドイツ風にトゥルン・ウント・タクシス家(トゥルン・エン・タシス家)と改名した。1695年にオイゲン・アレクサンダー・フォン・トゥルン・ウント・タクシスはフュルスト(侯爵)に昇格して初代トゥルン・ウント・タクシス侯となった。1702年、スペイン継承戦争の煽りを受けてトゥルン・ウント・タクシス家はブリュッセルから移動することになった。新たな本拠地は帝国自由都市フランクフルトだった。1711年にブリュッセルはハプスブルク領に戻ったが帝国郵便本部はフランクフルトに置かれたままとなった。 1740年からのオーストリア継承戦争ではトゥルン・ウント・タクシス家はハプスブルク家と対立し、ヴィッテルスバッハ家の皇帝カール7世に味方した。カール7世が死去するとハプスブルク家は帝位を取り戻したが、ハプスブルク家当主マリア・テレジアの夫である皇帝フランツ1世は1746年にトゥルン・ウント・タクシス家の郵便事業独占を改めて公認した。その二年後にトゥルン・ウント・タクシス家は帝国議会のあるレーゲンスブルクへ居を移した。フランクフルトに宮殿が出来たばかりであったが、タクシス家は皇帝特別主席代理を務める機会を優先して帝国議会に近いザンクト・エメラム修道院宮殿に住んだ。 トゥルン・ウント・タクシス家は郵便事業で莫大な富を蓄えたが、ナポレオン戦争によって帝国郵便は壊滅へと向かった。4代目のトゥルン・ウント・タクシス侯カール・アンセルムの時代、1792年から1802年のフランス革命戦争とそれに続く1803年から1815年のナポレオン戦争によって帝国郵便は徐々に郵便網を失っていった。第二次対仏大同盟が崩壊して1801年にリュネヴィルの和約が締結され、イタリアとネーデルラントにフランスの衛星国が建国された。帝国郵便は重要な収入源であった南ネーデルラントの郵便網を奪われた。1803年の帝国代表者会議主要決議の第13条では帝国郵便の存続が保証されたが、営業できる地域はリュネヴィルの和約でライン東岸に制限されていた。 1805年11月13日にカール・アンセルムが死ぬと息子のカール・アレクサンダーが5代目のトゥルン・ウント・タクシス侯となった。1805年12月のアウステルリッツの戦いで第三次対仏大同盟がフランス皇帝ナポレオン1世に壊滅的敗北を喫してプレスブルクの和約が締結されると、ヴュルテンベルク公国が王国に昇格して帝国郵便を王国から排除した。その一方で同じく公国から王国に昇格したバイエルン、辺境伯領から大公国に昇格したバーデンにおいてカール・アレクサンダーはトゥルン・ウント・タクシス侯として郵便事業を許可された。 1806年6月12日にナポレオンの主導のもとで中規模諸侯によるライン同盟が成立し、神聖ローマ皇帝フランツ2世は8月に帝国解散を宣言した。これは帝国郵便の終焉も意味し、トゥルン・ウント・タクシス家は帝国諸侯としての身分を失うことになった。しかしカール・アレクサンダーの妻テレーゼ・ツー・メクレンブルク(1789年に結婚)による交渉でトゥルン・ウント・タクシス家は民間企業としてドイツでの郵便事業独占を維持できることになった。ライン同盟規約の第27条は、帝国郵便を経営するトゥルン・ウント・タクシス侯家の郵便事業権を保護した。ナポレオンとは幾重にも交渉がなされていた。ナポレオン戦争の末期とそれに続く激動の時代において、郵便事業の資金提供面ではロスチャイルド家が関わっていた。
※この「帝国郵便(神聖ローマ帝国)」の解説は、「帝国郵便」の解説の一部です。
「帝国郵便(神聖ローマ帝国)」を含む「帝国郵便」の記事については、「帝国郵便」の概要を参照ください。
- 帝国郵便のページへのリンク