マクシミリアン・カール・フォン・トゥルン・ウント・タクシス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/22 03:28 UTC 版)
| マクシミリアン・カール Maximilian Karl von Thurn und Taxis  | 
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| 第6代トゥルン・ウント・タクシス侯 | |
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| 在位 | 1827年7月15日 - 1871年11月10日 | 
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| 出生 |  1802年11月3日 | 
    
| 死去 |  1871年11月10日(69歳没) | 
    
| 配偶者 | ヴィルヘルミーネ・フォン・デルンベルク | 
| マティルデ・ゾフィー・ツー・エッティンゲン=シュピールベルク | |
| 子女 | マクシミリアン・アントン 他 | 
| 家名 | トゥルン・ウント・タクシス家 | 
| 父親 | トゥルン・ウント・タクシス侯カール・アレクサンダー | 
| 母親 | テレーゼ・ツー・メクレンブルク | 
マクシミリアン・カール・フォン・トゥルン・ウント・タクシス(ドイツ語:Maximilian Karl von Thurn und Taxis, 1802年11月3日 - 1871年11月10日)は、トゥルン・ウント・タクシス侯(在位:1827年 - 1871年)、トゥルン・ウント・タクシス郵便総裁。
生涯
トゥルン・ウント・タクシス侯カール・アレクサンダーとその妻でメクレンブルク=シュトレーリッツ大公カール2世の娘テレーゼとの間の次男として、ザンクト・エメラム修道院宮殿で生まれた。1827年に父が亡くなると、侯爵家家長およびフランクフルト・アム・マインに本社を置くトゥルン・ウント・タクシス郵便の総裁を引き継いだ。1866年にフランクフルト自由市がプロイセン王国に併合されると、翌1867年7月1日、金銭的補償と引き替えにトゥルン・ウント・タクシス郵便をプロイセン政府に売却することを余儀なくされ、トゥルン・ウント・タクシス家によるヨーロッパ郵便網の独占支配は終わった。この事業は翌年正月から北ドイツ連邦郵便として再スタートした。
1828年8月24日レーゲンスブルクで、プロイセンの高級官僚エルンスト・フォン・デルンベルク男爵の娘ヴィルヘルミーネと結婚した。夫妻は世継ぎのマクシミリアン・アントンを含む5人の子女をもうけたが、ヴィルヘルミーネは1835年に亡くなった。
1839年1月24日エッティンゲンで、エッティンゲン=エッティンゲン侯およびエッティンゲン=シュピールベルク侯アロイス3世の娘マティルデ・ゾフィーと結婚し、間に12人の子女をもうけた。
| 先代 カール・アレクサンダー  |  
     トゥルン・ウント・タクシス侯 1827年 - 1871年  |  
     次代 マクシミリアン・マリア  | 
    
固有名詞の分類
| 金羊毛騎士団員 | 
ペドロ・カルロス・デ・ボルボーン ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ マクシミリアン・カール・フォン・トゥルン・ウント・タクシス ニコライ2世 カール・フォン・エスターライヒ=テシェン | 
| ドイツの侯爵 | 
ベルンハルト・フォン・ビューロー フィリップ=シャルル・ダランベール マクシミリアン・カール・フォン・トゥルン・ウント・タクシス オットー・フォン・ビスマルク アルベルト・フォン・トゥルン・ウント・タクシス | 
| トゥルン・ウント・タクシス家 | 
マクシミリアン・カール・フォン・トゥルン・ウント・タクシス フランツ・ヨーゼフ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス カール・アウグスト・フォン・トゥルン・ウント・タクシス アルベルト・プリンツ・フォン・トゥルン・ウント・タクシス アルベルト・フォン・トゥルン・ウント・タクシス | 
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