トゥルン・ウント・タクシス郵便
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「帝国郵便」の記事における「トゥルン・ウント・タクシス郵便」の解説
1808年8月1日、バイエルン王国は国営の郵政制度を確立してトゥルン・ウント・タクシス郵便を排除した。1810年にライン同盟首座大司教侯カール・テオドール・フォン・ダールベルクはレーゲンスブルクをバイエルン王国に譲渡した。このため、トゥルン・ウント・タクシス家は郵便事業の本部をレーゲンスブルクからフランクフルト・アム・マインへと60年ぶりに移転した。ナポレオンの敗北と亡命後、ウィーン会議においてドイツ連邦議会の一部参加国は、トゥルン・ウント・タクシス家の郵便事業に関する要求が正当であると認めた。1815年6月8日に成立したドイツ連邦法の第17条により、独自の郵便制度を確立した連邦加盟国はトゥルン・ウント・タクシス家へ補償を与えなければならないと定められた。しかしドイツ連邦外となったネーデルラント連合王国に接収された郵便事業の補償は受けられなかった。 ドイツ連邦法の元でトゥルン・ウント・タクシス郵便が営業したのは、ヘッセン大公国、ナッサウ公国、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国、ザクセン=マイニンゲン公国、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国、ロイス侯国、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国、リッペ=デトモルト侯国、シャウムブルク=リッペ侯国、自由都市フランクフルト・アム・マイン、ハンブルク、ブレーメン、リューベックであり、いずれも小国である。1816年5月20日、フランクフルト・アム・マインに本部が置かれることが確認された。 1816年5月14日、カール・アレクサンダーはヘッセン選帝侯国の郵便制度を運営するためにウィリアム1世選帝侯との契約を結んだ。契約に先立ち、トゥルン・ウント・タクシス郵便は1814年1月23日に選帝侯国の州郵便システムと相互輸送契約を結んでいた。同年6月4日、プロイセン王国がラインラントで得た領地での郵便事業をトゥルン・ウント・タクシス郵便より継承した。同様にバイエルン王国がウィーン会議で得たラインプファルツの郵便事業を継承した。1819年7月27日、ヴュルテンベルク王国は国家郵便制度の所有権と管理を、トゥルン・ウント・タクシス郵便に移譲した。1822年、トゥルン・ウント・タクシス家はオーストリア帝国からボヘミアのホティーシャウ(ドイツ語版)を108万9200グルデンで購入した。1835年、ベルギー独立革命などを受けてトゥルン・ウント・タクシス家は1670年に姻族から譲り受けたブレン・ル・シャトー(英語版)を初めとするネーデルラントに有する土地を全て売却した。 1847年にドレスデンでドイツ郵便会議が開催され、ドイツ・オーストリア郵便協会が設立された。この協会は1850年7月1日に実効力を持った。その前の1850年4月6日にはトゥルン・ウント・タクシス郵便も協会に加わったが、プロイセン王国は否定的な反応を示した。1866年の普墺戦争でプロイセンが勝利すると、プロイセンはフランクフルトとトゥルン・ウント・タクシス郵便本部を占領した。1867年1月28日に契約が締結・批准され、7月1日にトゥルン・ウント・タクシス家の郵便事業はプロイセンが購入した。最後の郵便局長はマクシミリアン・カール・フォン・トゥルン・ウント・タクシスであった。既にトゥルン・ウント・タクシス家の収益における郵便事業の割合はかなり低下しており、家業を失った痛手は小さかった。トゥルン・ウント・タクシス家は現代に至るまで名家・富豪として存続している。マクシミリアン・カールの長男マクシミリアン・アントン・フォン・トゥルン・ウント・タクシスはホーエンツォレルン家とポルトガル王室へ娘を嫁がせた。 1990年12月15日の報道によると、トゥルン・ウント・タクシス侯9世代目の当主ヨハネスの死去によりアルベルト・プリンツ・フォン・トゥルン・ウント・タクシスが相続した遺産は数十億マルクにのぼり、彼は当時世界最年少のビリオネアとなった。
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