敗北と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 15:03 UTC 版)
「ピョートル・ヴラーンゲリ」の記事における「敗北と亡命」の解説
しかし、ポーランド・ソビエト戦争、ウクライナ・ソビエト戦争の終結により赤軍の全勢力がクリミアへ向けられると、ロシア軍は瞬く間に存亡の危機に立たされることとなった。 ヴラーンゲリは、ポーランド・ソビエト戦争でのソヴィエト勢力の敗戦を頼みに起死回生をかけ、北方へ向けて突撃を行った。 しかしながら、赤軍の勢いは衰えておらず、ロシア軍は北ターヴリヤ(クリミア半島北部)での赤軍との戦闘、ペレコープ=チョーンガル作戦で兵力の半数を失うこととなった。ヴラーンゲリは、残存勢力をロシア国外に逃して態勢を立て直す決意をした。ヴラーンゲリは、全指揮官、兵士、そして彼らに従ってきた市民に対し選択の自由を与えた。すなわち、彼らは行き先の見えないヴラーンゲリの亡命に付き従うか、ソヴィエト勢力による占領を受け入れ現在の土地に残るかの選択を迫られたのである。 11月14日、ヴラーンゲリは残存兵力を艦隊に乗せて出航した。残る艦艇や航空機、車輌などは破壊された。だが、船団の一部は出航直前に赤軍によって拿捕された。クリミアで捕らえられた人々の多くは、その後しばらくの間に赤軍によって処刑された。 ヴラーンゲリら離脱に成功した一団は、トルコのイスタンブール、チュニジアのビゼルトなどを経由して、ユーゴスラビアへ亡命した。途中、12月29日に艦隊はビゼルトでフランス政府により接収された。全艦とも、その後ロシアへ返還されることなく解体された。
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