帝国郵便のルーツ
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「カメラータ・コルネッロ」の記事における「帝国郵便のルーツ」の解説
「帝国郵便」も参照 当地から出たタッソ家 (it:Tasso (famiglia)) (トゥルン・ウント・タクシス家)は、神聖ローマ帝国の帝国郵便(ライヒスポスト)を世襲経営した。この家門の興隆の礎を築いたのは、13世紀のオモデオ・タッソである。 オモデオの一族は、もともとアルメンノに暮らしていたが、ベルガモ周辺における教皇派と皇帝派の争いを避け、ブレンボ川上流のコルネッロ (it:Cornello dei Tasso) に移り住んだ。オモデオはコルネッロで成長した。オモデオの名前は、1251年の記録に見ることができる。彼は1290年、ベルガモ飛脚を起業した。その事業は18世紀まで続くことになる。 1350年頃に生まれたルゲリウス・デ・タッツィス・デル・コルネッロ (Ruggiero de Tassis) は地方豪族であったが、1443年にフリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝) の宮廷に召抱えられた。彼は1450年までにベルガモからウィーンまでの郵便を組織した。さらには1460年までにインスブルックからシュタイアーマルクまで、1480年頃にウィーンからブリュッセルまでも整備した。1489年、ジャネット・デ・タッシス (Jannetto de Tassis) はインスブルックの郵便局長となった。この15世紀にヴェネツィアのタクシス本家はローマに分家をつくった。家族は特に商人や銀行家として活躍した。ローマ家系は、始祖のセル・アレクサンデル・デ・タッシス・デ・コルネッロにちなんでサンドリと呼ばれた。 ジャネットの事業は兄弟のフランチェスコ・デ・タシス1世に継承された。この16世紀初頭にサンドリはベルガモに戻り、豪邸を建て、2009年のラクイラ地震で崩れるサント・スピーリト教会に埋葬された。1534年、ミラノ・ブリュッセル・スペインのタクシス家系の間で、ベルガモを含む遺産争いが起こった。これはタクシス家でアウクスブルクの郵便局長であったヨハン・アントンが調停した。 フュッセン家系はコルネッロから直接ドイツへ移住してきた。この家系のイノツェンツは、帝国郵便とオーストリア郵便を兼務し、ヴェネツィア家系の娘と結婚した。その間に生まれた二人の娘は、それぞれプラハ/ウィーン家系のフィリップス/フェルディナントの伴侶となった。かなり後の帝国代表者会議主要決議による世俗化はドイツのタクシス家に補償をもたらし、フュッセンのあるシュバーベン地方に領邦を獲得させた。しかしほどなく陪臣化によってシュタンデスヘルへ転落した。1976年、シュバーベンの所有地はレーゲンスブルクのザンクト・エメラム財務管理庁の管轄となった。
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