ハノーファー王国とは? わかりやすく解説

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ハノーファー王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 01:03 UTC 版)

ハノーファー王国
Königreich Hannover (ドイツ語)
1814年 - 1866年
(旗(1837年 - 1866年)) (国章)
国の標語: Suscipere et finire(ラテン語)
引き受け、そして成し遂げる
国歌: Heil Dir, Hannover!(ドイツ語)
ハノーファー万歳!

ハノーファー王国の位置(1815年)
公用語 ドイツ語低ザクセン語
首都 ハノーファー
国王
1814年 - 1820年 ゲオルク3世
1820年 - 1830年 ゲオルク4世
1830年 - 1837年 ヴィルヘルム
1837年 - 1851年 エルンスト・アウグスト
1851年 - 1866年 ゲオルク5世
宰相
1814年 - 1831年 エルンスト・フリードリヒ・ヘルベルト・ツー・ミュンスター
1865年 - 1866年 ゲオルク・バクマイスター
変遷
ウィーン会議 1814年10月12日
イギリスとの同君連合解消 1837年
ドイツ革命 1848年3月13日
普墺戦争 1866年6月14日
プラハ条約 1866年8月23日
プロイセンによる併合 1866年9月20日
通貨 ハノーファー・フェアアインスターラー
現在 オランダ
ドイツ

ハノーファー王国(ハノーファーおうこく、ドイツ語: Königreich Hannover)は、現在のドイツ北部、ニーダーザクセン州に存在した国家である。ハノーファー王国は1814年10月、ウィーン会議によって成立した。これはナポレオン戦争後にジョージ3世がハノーファー領を回復したことにより誕生した国家である。王国は旧ハノーファー選帝侯国の後継国家であり[1]、1815年6月には他の38の独立国家とともにドイツ連邦へ加盟した。

王国はヴェルフ家の分家であるハノーファー家にやって統治され、1714年から1837年までイギリスと同君連合を形成していた。君主はロンドンに居住していたため、通常はイギリス王室の王族が副王としてハノーファーの統治を担当した。1866年普墺戦争に敗れたことでプロイセン王国に併合され、消滅した。以降は1946年までプロイセン(王国、のち自由州)の一州(県)であるハノーファー州(県)英語版となった。

歴史

神聖ローマ帝国領邦の一つであったブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国は、分割相続によっていくつもの公(侯)領に分割された。1432年ヴォルフェンビュッテル侯領から分割されたカレンベルク侯領も、そうした領邦の一つであった。カレンベルク侯位は1584年に断絶によってヴォルフェンビュッテル侯領に継承されるが、1635年にカレンベルク侯領はゲッティンゲン侯領と共に、再びヴォルフェンビュッテル侯領から分割された。そして1636年に首都がパッテンセンからハノーファーに遷されたため、ハノーファー公と呼ばれるようになった。

1692年、ハノーファー公エルンスト・アウグストが選帝侯となったことにより、その公国はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領、通称ハノーファー選帝侯領となった。1714年、ハノーファー選帝侯ゲオルク1世ルートヴィヒはジョージ1世としてイギリス王に即位した(ハノーヴァー朝)。ドイツにおいても、リューネブルク侯領の継承(1705年)、スウェーデンからのブレーメンフェルデン(ブレミッシュ=フェルデン)の割譲(1719年)、と勢力を拡大していった。

1803年には、ナポレオンによる神聖ローマ帝国解体の一環としてオスナブリュック司教領を併合したものの、選帝侯領はフランスに占領され、1807年にはヴェストファーレン王国の一部となった。選帝侯領がフランスに占領された後も10年間、ゲオルク3世(イギリス王ジョージ3世)と家臣はロンドンで独自の外交を続けた。1813年に選帝侯ゲオルク3世は領土を回復し、1815年ウィーン会議により王国に昇格した。これは王国となっていたヴュルテンベルク公国と地位を等しくするためであった。さらにウィーン会議でハノーファーは、リューネブルク侯領であったエルベ川右岸や東にあったいくつかの飛び地と引き換えに、プロイセン王国からヒルデスハイム司教領、東フリースラント、リンゲン伯領、及びミュンスター司教領の北部を獲得した。また、ドイツ連邦に参加し、連邦議会の議席を得る。

ハノーファーの王位継承規定はイギリスと異なっていたため(サリカ法を採り、女子のハノーファー王位継承を認めていなかった)、イギリスとハノーファーの同君連合1837年ヴィクトリアがイギリス女王に即位したときに解消され、女王の叔父エルンスト・アウグストが即位した。このとき、イギリス的な自由主義国家体制も破棄されたために、これに抗議するグリム兄弟らによってゲッティンゲン七教授事件が起こされた。

1866年普墺戦争でハノーファー王国はオーストリア方に就いたため、敗戦後にプロイセンに併合されて州となった。第二次世界大戦後の1946年に、イギリスの占領下でオルデンブルクブラウンシュヴァイクシャウムブルクと合併してニーダーザクセン州となり、ハノーファーの名前は国名としては消滅した。

歴代君主一覧

年号は、在位期間を示す。

1837年にイギリスで女王ヴィクトリアが即位すると、サリカ法を採るハノーファー王国はその叔父エルンスト・アウグストが継承し、同君連合は解消された。

1866年にハノーファー王国はプロイセン王国に併合され、ゲオルク5世と王太子エルンスト・アウグスト(2世)は廃位された。王太子の子エルンスト・アウグスト(3世)ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の皇女ヴィクトリア・ルイーゼとの縁組により、同族の遠戚の死後空位となっていたブラウンシュヴァイク公国の公位の継承が認められた。

ハノーファー州知事一覧

年号は、在任期間を示す。

脚注

  1. ^ known formally as the Electorate of Brunswick-Lüneburg.

参考文献

関連項目


ハノーファー王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 10:23 UTC 版)

ラントヴェーア (軍事)」の記事における「ハノーファー王国」の解説

ウィーン会議経て成立したハノーファー王国の、新たに創設された軍では戦列歩兵の7個野戦大隊および1個猟兵軍団並んで何よりも数多くラントヴェーア歩兵大隊編成された。これらはイギリス軍制服着用し、同軍の正規歩兵連隊とともにカトル・ブラの戦い (Battle of Quatre Bras) やワーテルローの戦い投入されている。これらラントヴェーア大隊単位編成され出身地地名冠していた。例えば「ブレーマーフェルデ」、「ツェレ」、「ハーメルン」、「ヒルデスハイム」、「ホーヤ」、「ギフホルン (Gifhorn) 」、「ゴスラー (Goslar) 」、「リューネブルク」、「ニーンブルク」、「オスナブリュック」、「オステローデ (Osterode) 」、「パイネ (Peine) 」、「ザルツギッター」、「フェルデン」などである。後には他のドイツ諸邦と同様、予備役一部を「ラントヴェーア」と呼称した。

※この「ハノーファー王国」の解説は、「ラントヴェーア (軍事)」の解説の一部です。
「ハノーファー王国」を含む「ラントヴェーア (軍事)」の記事については、「ラントヴェーア (軍事)」の概要を参照ください。

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