物資の不足
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 19:49 UTC 版)
「ソビエト連邦の食事情」の記事における「物資の不足」の解説
農業の集団化による農村の荒廃と、農業の集団化とともに実施された穀物の徴発は1932年から1933年にかけてロシア、ウクライナ、中央アジア、コーカサスを襲った大飢饉を引き起こし、さらに第二次世界大戦による国土の荒廃が生産に打撃を与えた。農村の荒廃は生産力を低下させただけではなく、農村で食べられていた伝統的な料理を破壊した。ロシアの穀物不足を補うために中央アジアなどから穀物が輸送されたが、そのためにウズベキスタンなどの地域で食料が欠乏する。 「飢餓輸出#実例など」も参照 第二次世界大戦前にソ連が通商協定を結んでいたドイツと敵対するに及んでソ連の食料の不足は第一次世界大戦の時代よりも悪化する。都市部の住民は自家菜園の作物や、配給品のパンとコルホーズで収穫された作物の物々交換によって不足する食料を補った。コルホーズの収穫品は生産者である農民の元には届かず、農民たちは付属地で栽培したジャガイモによって飢えをしのいだ。 食品の生産と流通の過程では中間搾取と横流しが横行し、消費者の元に届いたときには低質な食材しか残されていなかった。時には、砂糖や小麦粉といった基本的な食材が店頭から消える事態も起きた。物資の不足により、レストランではメニューに載せられている多くの料理の中で実際に提供できる料理はその中の幾つかだけ、という状況が継続した。 品不足のために市民は商店で物を買うたびに行列に並ばなければならず、また購入できる商品の選択の幅は極めて狭かった。食品の価格は政府によって低く抑えられていたが、ロシア人は収入の大部分を食費に充てていた。また、食品には地域ごとに価格差が設定されていた。 市民はめぼしいものがあればすぐ買えるように、アヴォーシカ(Авоська、「もしかしたら」の意)という網袋を持ち歩いていた。都市部に住むロシア人は、郊外のダーチャ(家屋付きの家庭菜園)で食糧の不足を補っていた。それでもモスクワやレニングラードといった大都市は物資に恵まれていた方であり、地方の都市は中央以上に物不足に苦しんでいた。
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