物資と人員の輸送に活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/22 01:03 UTC 版)
「日立鉱山専用電気鉄道」の記事における「物資と人員の輸送に活躍」の解説
当初、日立鉱山への物資の輸送を目的として建設された日立鉱山専用電気鉄道であるが、建設途中の1908年(明治41年)10月に逓信大臣宛てに便乗許可願いが出された。翌11月には便乗が認可され、鉱山従業員と関係者の便乗が認められるようになった。1909年(明治42年)2月には便乗車について認可の申請が出され、同月中に許可が下りている。便乗車は助川駅を出ると芝内停留所、そして当初は役宅停留所を経て大雄院に到着した。 人専用の便乗車が運行を開始したのは大正に入ってからと考えられるが、いつから運行が開始されたかははっきりしない。当初、人専用の便乗車には鉱山の役員専用の座席つきの甲型便乗車と一般労働者用の座席なしの乙形便乗車があり、鉱山の厳しい縦社会が便乗車の座席にも反映していた。しかしこの便乗車のあまりにもあからさまな差別については、第四代の日立鉱山所長である角所長が撤廃を命じ、大正中期には廃止された。 大正初期から第一次世界大戦時にかけて日立鉱山は隆盛を迎え、日立鉱山の煙害対策のために造られた大煙突などの鉱山施設の建設資材の運搬など、日立鉱山専用電気鉄道はフル稼働した。1914年(大正3年)当時、15分に一本の運転間隔で、昼夜を問わず運行していたという。1918年(大正7年)には役宅停留所が廃止され、杉本停留所が開設された。 第一次世界大戦後不況が続いた日立鉱山であったが、日立鉱山で進められていた合理化の一環として、これまでポール式の集電器であった電気機関車は1930年(昭和5年)にはパンタグラフ式に改造された。そして戦時体制が強化されるにつれて日立鉱山は再び隆盛を迎え、1932年(昭和7年)には電気機関車27両、貨車約400両を保有しており、1941年(昭和16年)頃には72往復というダイヤが組まれ、昼夜を問わず物資と人員の輸送を行った。 1945年(昭和20年)7月17日から20日にかけての空襲と艦砲射撃によって、日立鉱山専用電気鉄道もかなりの被害を蒙ったが復旧された。 そして1951年(昭和26年)4月には自動踏切警報機が設置されるなど、設備の近代化も図られていった。1954年(昭和29年)には、電気機関車18両、72人乗り客車18両、貨車365両、タンク車12両を保有し、月平均5万6000トンあまりの貨物を輸送しており、1956年(昭和31年)には一日平均約6000人の乗客を輸送するなど、戦後も日立鉱山の復活とともに輸送の大動脈として活躍していた。
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