実例など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/01 23:20 UTC 版)
ロシアでは、ロマノフ朝末期から西欧諸国(特にフランス)への債務返済の目的で、小麦の飢餓輸出をおこなっていた。飢餓輸出はソ連時代になっても、外貨獲得の手段として続行された。ウラジーミル・レーニンは市場経済廃絶も兼ね、根こそぎ強制搾取で500万以上の死者を出し、ヨシフ・スターリンによる強引な農業集団化政策の影響で、1932年‐33年にウクライナで大飢饉が発生した際も、スターリンの命令により、引き続きウクライナから大量の小麦が輸出目的で搬出されたことで、飢饉の影響はより深刻かつ凄惨なものとなった。 近年で有名なところではルーマニア社会主義共和国の元首、ニコラエ・チャウシェスクの行ったものである。西側諸国からの累積債務返済のため、飢餓的な輸出を強行し、生活用品や食料品も不足したとされ、ルーマニア革命の遠因ともなった。 日本の1993年米騒動では、日本国内で米が不足したため海外から米を輸入することとなった。そのため米を輸出したタイ国内では逆に米が不足、高騰を招く事態となった。海外では、当時の日本国内には米以外の十分な食料があったことを皮肉って、ある種の飢餓輸出と呼ぶこともあった。 北朝鮮では国内各地で食糧不足が深刻化しているにもかかわらず、外貨を獲得するために飢餓輸出を続けているとされる。主な輸出品目はマツタケや魚介類である(ただし、正確な情報の不足から完全な把握は困難)。 中華人民共和国の大躍進政策で多数の餓死者を出す原因となったのは、ソ連からの借款の返済に農作物を充てていたことが一因となったという指摘もある(中華人民共和国大飢饉)。 アイルランドのジャガイモ飢饉は小麦がほとんどイングランドへ輸出され、小作人の主食がジャガイモに限られていたことが背景にあり、多数の餓死者が発生しても豊作だった小麦の輸出は通常通り続けられた。 インドネシア(旧オランダ領東インド)での強制栽培制度(一種の専売制) 民主カンプチアのサハコー集団農場の米の中国輸出。 多くのアフリカ諸国では、植民地支配から解放された今でも先進国向けの農作物を栽培しているため、現地人は食糧を手に入れるため現金が必要となり、飢餓の原因となっている。 鹿児島から沖縄にかけての島嶼部では、黒糖地獄によるソテツ地獄で苦しめられていた。
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