研究略史とは? わかりやすく解説

研究略史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:43 UTC 版)

成川式土器」の記事における「研究略史」の解説

日本考古学黎明期1919年大正8年)、縄文土器弥生土器区別や、およその年代などについて論じられている研究水準にあって考古学者濱田耕作により全国各地出土した弥生土器集成された際、成川式土器薩摩大隅半島弥生土器みなされた。 また同時期、濱田発掘調査行った指宿市橋牟礼川遺跡出土成川式土器も、弥生土器として認識されていた(後述)。 その後各地遺跡調査で、須恵器土師器共伴して出土する事例もあったが、成川式土器弥生土器としてとらえる見方変わらず古墳時代になって九州南部では弥生土器継続して使われるという見解なされた1957年昭和32年)、指宿市成川遺跡の発掘調査と、1974年昭和49年)のその調査報告以降、この土器群に「成川式土器」の名称が使われ始める。 1980年代以降研究進歩により、成川式土器は、その隆盛ピーク古墳時代にあることが徐々に明らかとなり、弥生土器ではなく、また古墳時代土器典型である土師器須恵器とも異なる、九州南部独特の土器であることが確定した実年代については弥生終末から古墳時代後期に及ぶことが明らかとなった。 現在では橋牟礼川遺跡新たな調査により、甕などの一部器種は、8世紀後半まで存続することが明らかとなっている。

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研究略史

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円筒埴輪」の記事における「研究略史」の解説

研究史古く明治近代的な考古学研究開始される円筒埴輪についても議論始まった1888年明治21年)から1901年明治34年)にかけて坪井正五郎埴輪円筒円筒埴輪)について、表面入った無数の筋目模様刷毛目ハケメ)」に注目し墳丘崩落を防ぐ土留から生じた柴垣模倣説提唱し異論を唱える和田千吉や、光井清三郎らと論争した1967年昭和42年)には近藤義郎春成秀爾により、円筒埴輪弥生時代後期後葉2世紀後半)吉備岡山県地方特殊器台・特殊壺を祖源とし、3世紀後半までに成立してたとする変遷過程示された。 1978年昭和53年)には川西宏幸が「円筒埴輪総論」を発表した川西は、円筒埴輪の持つ突帯(タガ)の形状調整ハケメ)の向きなどの諸属性分類検討しハケメ調整として断続的な「A種ヨコハケ(工具表面から複数離れる)」、継続的な「B種ヨコハケ(工具離さない静止痕が残る)」、連続的な「C種ヨコハケ(工具離さず一周させる)」、「タテハケ」を分類し年代特定する基準とした。また表面の「黒斑」の有無により、須恵器生産技術として伝来した窖窯導入時期を画期とするなどして、Ⅰ~Ⅴ期の年代区分与え全国的な埴輪編年構築した。この円筒埴輪編年天皇陵古墳などを含む全国古墳年代決定基準ともなり現代学界で支持される成果となった

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挂甲」の記事における「研究略史」の解説

古墳出土甲冑についての考古学的な研究史明治期遡る1898年明治31年)に千葉県木更津市祇園大塚山古墳から出土した小札造りの甲(現在、古墳時代の「挂甲」と呼ばれているタイプ)について、小杉榲邨が『東大寺献物帳にみえる短甲であろう報告したが、3年後1901年明治34年)に岡山県小田郡新山古墳から出土した幅広鉄板連接した板造り形式の甲を、沼田頼輔有職故実研究大家として知られていた関保之助教示受けて短甲」と呼んで報告した。これ以降古墳時代の板造りの甲を「短甲」、小札造りの甲を「挂甲」と呼ぶ傾向定着していき、1913年大正2年)には高橋健自が「短甲」「挂甲」の呼び分けを既に用いている。 初期古墳時代研究において、当時代の甲冑形式枠組み構築したのは末永雅雄である。末永は、板造り甲と造り甲の形態的技術的な分析分類をしたうえで「短甲」「挂甲」の形式名を定め今日まで引き継がれる当時甲冑研究基礎築いた造り甲については奈良県奈良市円照寺墓山古墳和歌山県有田市古墳はじかみこふん)の出土例などを検討して裲襠両当)式挂甲りょうとうしきけいこう)」と「胴丸挂甲どうまるしきけいこう)」の2形式設定した古墳から出土する小札甲(挂甲)は、縅紐が腐朽すると形状崩壊し小札も銹化してしまうため、部分的にしか残らず全体像復原容易でない。そのため研究の進展遅れていたが、埼玉県行田市埼玉稲荷山古墳奈良県斑鳩町藤ノ木古墳出土例などの類例増加により、バラバラの状態から全体復原する方法や、縅紐の連接法などによる分類が可能となり、1980年代頃から研究進展し始めた2000年代以降中国韓国でも甲の研究進展したため、東アジア的な視点での形態技術分析系譜論などが検討されるようになってきている。 2012年平成24年)には、群馬県渋川市金井東裏遺跡甲冑小札甲と衝角付冑)を着たまま榛名山火砕流飲まれた「甲を着た古墳人」が発見されたが、その近く同時に発見され別の甲冑で、小札鹿角製(ろっかくせい)のものが見つかり新発見となった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 13:41 UTC 版)

短甲」の記事における「研究略史」の解説

古墳出土甲冑についての考古学的な研究史明治期遡る1898年明治31年)に千葉県木更津市祇園大塚山古墳から出土した小札造りの甲(現在、古墳時代の「挂甲」と呼ばれているタイプ)について、小杉榲邨が『東大寺献物帳にみえる短甲であろう報告したが、3年後1901年明治34年)に岡山県小田郡新山古墳から出土した幅広鉄板連接した板造り形式の甲を、沼田頼輔有職故実研究大家として知られていた関保之助教示受けて短甲」として報告した。これ以降古墳時代の板造りの甲を「短甲」、造りの甲を「挂甲」と呼ぶ傾向定着していき、1913年大正2年)には高橋健自が「短甲」「挂甲」の呼び分けを既に用いている。 初期古墳時代研究において、当時代の甲冑形式枠組み構築したのは末永雅雄である。末永は、板造り甲と造り甲の形態的技術的な分析分類をしたうえで「短甲」「挂甲」の形式名を定め今日まで引き継がれる当時甲冑研究基礎築いた。板造り甲(短甲)について、形態構造のほか、革綴技法・鋲留技法などの製作技術分析し復元研究行った1934年昭和9年)の末永研究以降、「短甲」と呼ばれることになった造り甲は、全国出土例増加した。それにより、鉄製地板種類長方板・方形板・三角板)や鉄板同士連接技法分類、またそれに基づく編年研究などが進展し小林行雄長方板革綴形式出現同甲定型化成立し革綴じ技法から鋲留め技法へと変遷していく過程示したまた、横長帯状鉄板綴じ合わせて連接したその構造ないし設計思想的確に表した概念として、古谷毅により「帯金甲冑」という用語が提唱された。 その後現代に至るまで多く研究者による編年分類案についての研究が行われ、型式学的な細分化進んでいる。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 23:49 UTC 版)

アルタル・デ・サクリフィシオス」の記事における「研究略史」の解説

アルタル・デ・サクリフィシオスは、1883年アルフレッド・モーズレー (Alfred Maudslay) によって記録上はじめて紹介された。モーズレーヤシュチラン調査帰途パシオン川河口付近発見した遺跡について短い記録残している。遺跡大きさ位置建造物祭壇などの状況一致することから、この遺跡アルタル・デ・サクリフィシオスであると考えられている。テオベルト・マーラー (Teobert Maler) が1895年1904年パシオン川-ウスマシンタ川流域探索行い1895年7月11日1904年6月22日にこの遺跡調査巨大な円形祭壇発見し、「アルタル・デ・サクリフィシオス」(生贄祭壇)と命名した。この祭壇建造物A-IIプラットフォームC頂上置かれ祭壇1である。1914年にシルヴヌス・グリスヴォルド・モーリー (Sylvanus Morley) が石碑石彫などの金石学的な調査おこない石碑石彫に関する最初報告書1937年1938年にかけて刊行した1959年から1964年にかけてレドヤード・スミス (A. Ledyard Smith) とゴードン・ウィリー (Gordon R. Willey) によるハーバード大学調査隊が一般調査と図化、発掘調査行い1969年から1973年にかけて、次々分冊として報告書刊行した。おもなものは、リチャード・アダムス (Richard E.W. Adams) による土器に関するもの(1971年刊)、スミスによる建造物など遺構に関するもの(1972年刊)、ジョン・A. グラハム (John A. Graham) による碑文に関するもの(1972年刊)、ウィリーによる土器以外の遺物に関するもの(1972年刊)が挙げられる

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/07 04:41 UTC 版)

コツマルワパ様式」の記事における「研究略史」の解説

これらの遺跡存在は、19世紀より知られていたが、1920年代メキシコ中央高原影響指摘されて、本格的な調査が行われたのは、ジョン・エリック・シドニー・トンプソンThompson,J.Eric S.)による1942年エル・バウル調査であったトンプソンは、コツマルワパ様式を、古典期後期位置づけた。1962年から64年にかけて、ステファン・デ・ボルヘギー(Borhegyi,Stephan de)やリー・アレン・パーソンズ(Parsons,Lee A.)らによるミルウォーキー公立博物館によるビルバオ中心とする調査では、基本的にトンプソン説を確認しながら、テオティワカン起源発しているとした。しかし、その後石彫図像自体宗教的意味解釈停滞してきたが、杉山久美子杉山三郎が、後古典期末期アステカミシュテカ系絵文書描かれ球戯まつわる信仰儀式神々体系が、すでに古典期からグアテマラ太平洋岸のコツマルワパに見られることを指摘しようと試みている。

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研究略史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 12:33 UTC 版)

日本の古代道路」の記事における「研究略史」の解説

従前日本の古代道路は、細々とした小径けもの道だと考えられてきた。1970年古代日本研究者岸俊男が、上ツ道中ツ道下ツ道などが直線的な計画道路であったことを発表し古代道路研究一気注目集め始めた1970年代には、多く研究者古代道路調査研究傾注し直線的な計画道路全国に及ぶこと、広い幅員を持つことなどが判明していった。1980年代後半には、全国的に古代道路発掘調査が行われ、古代道路考古学的な裏付けを持つとともにその実態も明らかとなっていった。1990年代には、上述静岡市曲金北遺跡発掘調査実例などから、古代道路直線的大規模な計画道路だったことは常識となり、多く地域で、郷土史一環として古代道路路線復元などが試みられるなど、詳細な研究結果発表されていった。しかし、古代道路古代日本社会において、いかに位置づけられ、いかに変容ていったかなど、新たな研究課題浮上してきた。

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研究略史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 06:38 UTC 版)

形象埴輪」の記事における「研究略史」の解説

形象埴輪学史古く初期には後藤守一1931年昭和6年)に発表した論文埴輪意義」などがある。後藤は同論文で、人物埴輪表現される服飾装備品所作などから個々埴輪の表す職掌性格など分析し古墳樹立される形象埴輪群(埴輪群像に対して古墳葬られる首長豪族)を送る葬儀葬列を表すものではないかとする具体的な意義解釈初め言及した1956年昭和31年)に早稲田大学滝口宏らによって行われた千葉県横芝光町芝山古墳群発掘調査では、同古墳群姫塚墳丘北側前方部隅角から後円部背後まで50メートルわたって形象埴輪が行列のまま倒れているのが発見された。第1群は笠をかぶった馬子、鞍を着けた馬4頭、武人5体、第2群男子16体、器財埴輪1個、第3群は女子像7体、第4群は男子10となっていた。この中にはあごひげ伸ばした武人、くわを持った農夫、やや離れてひざまずく男子と琴を膝に置く人物などもあった。埴輪列が原位置保ったまま完存していた稀有な例であり、それまで不明であった形象埴輪配列の意味を知ることのできる最初の発見であった滝口は、この調査結果から、後藤同じく葬列説を提示したが、人物埴輪群像向き全て墳丘に対して外側向いていたことなどから異論出た小林行雄は、1958年昭和33年)に形象埴輪編年研究行い形象埴輪には種類によって出現時期差異があることを指摘した1971年昭和46年)に水野正好は、1929年昭和4年)に発掘調査されていた群馬県渡田八幡塚古墳形象埴輪配列構造検討して埴輪芸能論」を発表し埴輪群像を「王権継承儀礼」を表したものとする説を唱え埴輪祭祀対す解釈をより深化させ、学界大きな影響与えた円筒埴輪に対して形象埴輪編年研究が困難とされていたが、1988年昭和63年)に高橋克壽が器財埴輪についての編年提示し以後形象埴輪研究活性化した1996年平成8年)には、後藤守一以来既存人物埴輪分類・名称設定疑問投げ掛けた塚田良道が、型式学分析から再検討し例えば「踊る埴輪」と呼ばれていた埴輪が「馬飼」に分類されるべきものであることなどを指摘した1998-2000年度(平成10-12年度)に、伊勢国最大前方後円墳である宝塚1号墳(三重県松阪市)の造出付近行われた発掘調査では、埴輪配置明らかにされている。同古墳造出前方部との間には、船形埴輪家形埴輪置かれていた。そこから墳丘外に向かったところに井戸とその覆屋表現した囲形埴輪や柵形埴輪円筒埴輪と壺に囲まれるように置かれていた。また、くびれ部の反対側の裾に、導水施設とその覆屋表した囲形埴輪と柵形埴輪家形埴輪一緒に置かれていた。これらの例は、葬送儀礼大いに関係あることを示すと考えられている。 2000年平成12年)には「埴輪芸能論」の基礎資料として知られる渡田八幡塚古墳について、史跡整備に伴う再発掘調査と発掘調査報告書をまとめた若狭徹により、八幡塚古墳埴輪配列には首長継承儀礼の意味だけではなく亡き首長生前執り行った複数儀礼行為場面表されており、埴輪群像とは、古墳葬られ首長権力表象装置である、とする新たな解釈加えられた。

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研究略史

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称名寺式」の記事における「研究略史」の解説

1951年1957年吉田格によってA~Jまである称名寺貝塚のうちA貝塚とB貝塚調査され、古相として称名寺式第一土器、新相として称名寺式第二土器位置付けられた。吉田堀之内式に先行するものとして位置づけ1960年代並行する土器型式発見できないなどから独立した型式として位置付けるべきか疑問投げかける風潮もあったが、1977年提示され今村啓爾編年案、1985年中島一による他の土器様式との並存関係を論じた文様モチーフ研究などによって位置付け確定されてきた。先行する加曾利E式後続する堀之内式との並行関係が明らかになるとともに加曾利E式堀之内式の間に位置付けられる土器型式としての位置確定し吉田の提唱した称名寺式第一土器称名寺式第二土器と大体同じ内容でI式とII式が位置付けられることとなった

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