研究略史
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日本考古学黎明期の1919年(大正8年)、縄文土器と弥生土器の区別や、およその年代などについて論じられている研究水準にあって、考古学者の濱田耕作により全国各地で出土した弥生土器が集成された際、成川式土器は薩摩・大隅半島の弥生土器とみなされた。 また同時期、濱田が発掘調査を行った指宿市橋牟礼川遺跡出土の成川式土器も、弥生土器として認識されていた(後述)。 その後、各地の遺跡調査で、須恵器や土師器と共伴して出土する事例もあったが、成川式土器を弥生土器としてとらえる見方は変わらず、古墳時代になっても九州南部では弥生土器が継続して使われるという見解がなされた。 1957年(昭和32年)、指宿市成川遺跡の発掘調査と、1974年(昭和49年)のその調査報告以降、この土器群に「成川式土器」の名称が使われ始める。 1980年代以降、研究の進歩により、成川式土器は、その隆盛のピークが古墳時代にあることが徐々に明らかとなり、弥生土器ではなく、また古墳時代土器の典型である土師器や須恵器とも異なる、九州南部独特の土器であることが確定した。実年代については弥生終末から古墳時代後期に及ぶことが明らかとなった。 現在では橋牟礼川遺跡の新たな調査により、甕などの一部の器種は、8世紀後半まで存続することが明らかとなっている。
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研究略史
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研究史は古く、明治に近代的な考古学研究が開始されると円筒埴輪についても議論が始まった。1888年(明治21年)から1901年(明治34年)にかけて坪井正五郎は埴輪円筒(円筒埴輪)について、表面に入った無数の筋目模様「刷毛目(ハケメ)」に注目し、墳丘崩落を防ぐ土留から生じた柴垣模倣説を提唱し、異論を唱える和田千吉や、光井清三郎らと論争した。 1967年(昭和42年)には近藤義郎と春成秀爾により、円筒埴輪が弥生時代後期後葉(2世紀後半)の吉備(岡山県)地方の特殊器台・特殊壺を祖源とし、3世紀後半までに成立してきたとする変遷過程が示された。 1978年(昭和53年)には川西宏幸が「円筒埴輪総論」を発表した。川西は、円筒埴輪の持つ突帯(タガ)の形状や調整(ハケメ)の向きなどの諸属性を分類・検討し、ハケメ調整として断続的な「A種ヨコハケ(工具が表面から複数回離れる)」、継続的な「B種ヨコハケ(工具を離さないが静止痕が残る)」、連続的な「C種ヨコハケ(工具を離さず一周させる)」、「タテハケ」を分類し、年代を特定する基準とした。また表面の「黒斑」の有無により、須恵器生産技術として伝来した窖窯の導入時期を画期とするなどして、Ⅰ~Ⅴ期の年代区分を与え、全国的な埴輪編年を構築した。この円筒埴輪編年は天皇陵古墳などを含む全国の古墳の年代決定基準ともなり、現代の学界でも支持される成果となった。
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研究略史
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古墳出土甲冑についての考古学的な研究史は明治期に遡る。1898年(明治31年)に千葉県木更津市祇園大塚山古墳から出土した小札造りの甲(現在、古墳時代の「挂甲」と呼ばれているタイプ)について、小杉榲邨が『東大寺献物帳』にみえる「短甲」であろうと報告したが、3年後の1901年(明治34年)に岡山県小田郡新山古墳から出土した幅広の鉄板を連接した板造り形式の甲を、沼田頼輔が有職故実研究の大家として知られていた関保之助の教示を受けて「短甲」と呼んで報告した。これ以降、古墳時代の板造りの甲を「短甲」、小札造りの甲を「挂甲」と呼ぶ傾向が定着していき、1913年(大正2年)には高橋健自が「短甲」「挂甲」の呼び分けを既に用いている。 初期の古墳時代研究において、当時代の甲冑形式の枠組みを構築したのは末永雅雄である。末永は、板造り甲と札造り甲の形態的・技術的な分析と分類をしたうえで「短甲」「挂甲」の形式名を定め、今日まで引き継がれる当時代甲冑研究の基礎を築いた。札造り甲については奈良県奈良市円照寺墓山古墳や和歌山県有田市淑古墳(はじかみこふん)の出土例などを検討して「裲襠(両当)式挂甲(りょうとうしきけいこう)」と「胴丸式挂甲(どうまるしきけいこう)」の2形式を設定した。 古墳から出土する小札甲(挂甲)は、縅紐が腐朽すると形状が崩壊し、小札も銹化してしまうため、部分的にしか残らず全体像の復原が容易でない。そのため研究の進展が遅れていたが、埼玉県行田市埼玉稲荷山古墳や奈良県斑鳩町藤ノ木古墳の出土例などの類例増加により、バラバラの状態から全体を復原する方法や、縅紐の連接法などによる分類が可能となり、1980年代頃から研究が進展し始めた。2000年代以降、中国や韓国でも札甲の研究が進展したため、東アジア的な視点での形態や技術の分析、系譜論などが検討されるようになってきている。 2012年(平成24年)には、群馬県渋川市の金井東裏遺跡で甲冑(小札甲と衝角付冑)を着たまま榛名山の火砕流に飲まれた「甲を着た古墳人」が発見されたが、その近くで同時に発見された別の甲冑で、小札が鹿角製(ろっかくせい)のものが見つかり新発見となった。
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研究略史
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古墳出土甲冑についての考古学的な研究史は明治期に遡る。1898年(明治31年)に千葉県木更津市祇園大塚山古墳から出土した小札造りの甲(現在、古墳時代の「挂甲」と呼ばれているタイプ)について、小杉榲邨が『東大寺献物帳』にみえる「短甲」であろうと報告したが、3年後の1901年(明治34年)に岡山県小田郡新山古墳から出土した幅広の鉄板を連接した板造り形式の甲を、沼田頼輔が有職故実研究の大家として知られていた関保之助の教示を受けて「短甲」として報告した。これ以降、古墳時代の板造りの甲を「短甲」、札造りの甲を「挂甲」と呼ぶ傾向が定着していき、1913年(大正2年)には高橋健自が「短甲」「挂甲」の呼び分けを既に用いている。 初期の古墳時代研究において、当時代の甲冑形式の枠組みを構築したのは末永雅雄である。末永は、板造り甲と札造り甲の形態的・技術的な分析と分類をしたうえで「短甲」「挂甲」の形式名を定め、今日まで引き継がれる当時代甲冑研究の基礎を築いた。板造り甲(短甲)について、形態や構造のほか、革綴技法・鋲留技法などの製作技術を分析し、復元的研究を行った。 1934年(昭和9年)の末永の研究以降、「短甲」と呼ばれることになった板造り甲は、全国で出土例が増加した。それにより、鉄製地板の種類(長方板・方形板・三角板)や鉄板同士の連接技法の分類、またそれに基づく編年的研究などが進展し、小林行雄は長方板革綴形式の出現で同甲の定型化が成立し、革綴じ技法から鋲留め技法へと変遷していく過程を示した。 また、横長の帯状鉄板を綴じ合わせて連接したその構造ないし設計思想を的確に表した概念として、古谷毅により「帯金式甲冑」という用語が提唱された。 その後も現代に至るまで多くの研究者による編年や分類案についての研究が行われ、型式学的な細分化が進んでいる。
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研究略史
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「アルタル・デ・サクリフィシオス」の記事における「研究略史」の解説
アルタル・デ・サクリフィシオスは、1883年にアルフレッド・モーズレー (Alfred Maudslay) によって記録上はじめて紹介された。モーズレーはヤシュチランの調査の帰途にパシオン川の河口付近で発見した遺跡について短い記録を残している。遺跡の大きさや位置、建造物、祭壇などの状況が一致することから、この遺跡がアルタル・デ・サクリフィシオスであると考えられている。テオベルト・マーラー (Teobert Maler) が1895年と1904年にパシオン川-ウスマシンタ川流域の探索を行い、1895年7月11日と1904年6月22日にこの遺跡を調査。巨大な円形の祭壇を発見し、「アルタル・デ・サクリフィシオス」(生贄の祭壇)と命名した。この祭壇は建造物A-IIプラットフォームC頂上に置かれた祭壇1である。1914年にシルヴヌス・グリスヴォルド・モーリー (Sylvanus Morley) が石碑や石彫などの金石学的な調査をおこない、石碑や石彫に関する最初の報告書を1937年と1938年にかけて刊行した。1959年から1964年にかけてレドヤード・スミス (A. Ledyard Smith) とゴードン・ウィリー (Gordon R. Willey) によるハーバード大学の調査隊が一般調査と図化、発掘調査を行い、1969年から1973年にかけて、次々に分冊として報告書を刊行した。おもなものは、リチャード・アダムス (Richard E.W. Adams) による土器に関するもの(1971年刊)、スミスによる建造物など遺構に関するもの(1972年刊)、ジョン・A. グラハム (John A. Graham) による碑文に関するもの(1972年刊)、ウィリーによる土器以外の遺物に関するもの(1972年刊)が挙げられる。
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研究略史
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これらの遺跡の存在は、19世紀より知られていたが、1920年代にメキシコ中央高原の影響が指摘されて、本格的な調査が行われたのは、ジョン・エリック・シドニー・トンプソン(Thompson,J.Eric S.)による1942年のエル・バウルの調査であった。トンプソンは、コツマルワパ様式を、古典期後期に位置づけた。1962年から64年にかけて、ステファン・デ・ボルヘギー(Borhegyi,Stephan de)やリー・アレン・パーソンズ(Parsons,Lee A.)らによるミルウォーキー公立博物館によるビルバオを中心とする調査では、基本的にトンプソン説を確認しながら、テオティワカンに起源を発しているとした。しかし、その後石彫の図像自体の宗教的意味の解釈は停滞してきたが、杉山久美子と杉山三郎が、後古典期末期のアステカ、ミシュテカ系絵文書に描かれた球戯にまつわる信仰、儀式、神々の体系が、すでに古典期からグアテマラ太平洋岸のコツマルワパに見られることを指摘しようと試みている。
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研究略史
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従前、日本の古代道路は、細々とした小径・けもの道だと考えられてきた。1970年に古代日本史研究者の岸俊男が、上ツ道・中ツ道・下ツ道などが直線的な計画道路であったことを発表し、古代道路の研究が一気に注目を集め始めた。1970年代には、多くの研究者が古代道路の調査研究に傾注し、直線的な計画道路が全国に及ぶこと、広い幅員を持つことなどが判明していった。1980年代後半には、全国的に古代道路の発掘調査が行われ、古代道路が考古学的な裏付けを持つとともに、その実態も明らかとなっていった。1990年代には、上述の静岡市曲金北遺跡発掘調査の実例などから、古代道路が直線的で大規模な計画道路だったことは常識となり、多くの地域で、郷土史の一環として古代道路の路線復元などが試みられるなど、詳細な研究結果が発表されていった。しかし、古代道路が古代日本の社会において、いかに位置づけられ、いかに変容していったかなど、新たな研究課題も浮上してきた。
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研究略史
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形象埴輪の学史は古く、初期には後藤守一が1931年(昭和6年)に発表した論文「埴輪の意義」などがある。後藤は同論文で、人物埴輪に表現される服飾や装備品、所作などから個々の埴輪の表す職掌的性格などを分析し、古墳に樹立される形象埴輪群(埴輪群像)に対して、古墳に葬られる首長(豪族)を送る葬儀、葬列を表すものではないかとする具体的な意義・解釈に初めて言及した。 1956年(昭和31年)に早稲田大学の滝口宏らによって行われた千葉県横芝光町・芝山古墳群の発掘調査では、同古墳群姫塚の墳丘北側前方部の隅角から後円部背後まで50メートルにわたって形象埴輪が行列のまま倒れているのが発見された。第1群は笠をかぶった馬子、鞍を着けた馬4頭、武人5体、第2群は男子像16体、器財埴輪1個、第3群は女子像7体、第4群は男子像10体となっていた。この中にはあごひげを伸ばした武人、くわを持った農夫、やや離れてひざまずく男子と琴を膝に置く人物などもあった。埴輪列が原位置を保ったまま完存していた稀有な例であり、それまで不明であった形象埴輪の配列の意味を知ることのできる最初の発見であった。滝口は、この調査結果から、後藤と同じく葬列説を提示したが、人物埴輪群像の向きが全て墳丘に対して外側を向いていたことなどから異論も出た。 小林行雄は、1958年(昭和33年)に形象埴輪の編年的研究を行い、形象埴輪には種類によって出現時期に差異があることを指摘した。 1971年(昭和46年)に水野正好は、1929年(昭和4年)に発掘調査されていた群馬県保渡田八幡塚古墳の形象埴輪配列の構造を検討して「埴輪芸能論」を発表し、埴輪群像を「王権継承儀礼」を表したものとする説を唱え、埴輪祭祀に対する解釈をより深化させ、学界に大きな影響を与えた。 円筒埴輪に対して形象埴輪は編年的研究が困難とされていたが、1988年(昭和63年)に高橋克壽が器財埴輪についての編年を提示し、以後形象埴輪の研究も活性化した。 1996年(平成8年)には、後藤守一以来の既存の人物埴輪の分類・名称設定に疑問を投げ掛けた塚田良道が、型式学的分析から再検討し、例えば「踊る埴輪」と呼ばれていた埴輪が「馬飼」に分類されるべきものであることなどを指摘した。 1998-2000年度(平成10-12年度)に、伊勢国で最大の前方後円墳である宝塚1号墳(三重県松阪市)の造出付近で行われた発掘調査では、埴輪の配置が明らかにされている。同古墳の造出と前方部との間には、船形埴輪と家形埴輪が置かれていた。そこから墳丘外に向かったところに井戸とその覆屋を表現した囲形埴輪や柵形埴輪が円筒埴輪と壺に囲まれるように置かれていた。また、くびれ部の反対側の裾に、導水施設とその覆屋を表した囲形埴輪と柵形埴輪が家形埴輪と一緒に置かれていた。これらの例は、水が葬送儀礼と大いに関係あることを示すと考えられている。 2000年(平成12年)には「埴輪芸能論」の基礎資料として知られる保渡田八幡塚古墳について、史跡整備に伴う再発掘調査と発掘調査報告書をまとめた若狭徹により、八幡塚古墳の埴輪配列には首長権継承儀礼の意味だけではなく、亡き首長が生前に執り行った複数の儀礼行為の場面も表されており、埴輪群像とは、古墳に葬られた首長の権力の表象装置である、とする新たな解釈が加えられた。
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研究略史
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1951年と1957年に吉田格によってA~Jまである称名寺貝塚のうちA貝塚とB貝塚が調査され、古相として称名寺式第一群土器、新相として称名寺式第二群土器が位置付けられた。吉田は堀之内式に先行するものとして位置づけ、1960年代に並行する土器型式が発見できないなどから独立した型式として位置付けるべきか疑問を投げかける風潮もあったが、1977年に提示された今村啓爾の編年案、1985年の中島庄一による他の土器様式との並存関係を論じた文様モチーフの研究などによって位置付けが確定されてきた。先行する加曾利E式や後続する堀之内式との並行関係が明らかになるとともに加曾利E式と堀之内式の間に位置付けられる土器型式としての位置が確定し、吉田の提唱した称名寺式第一群土器、称名寺式第二群土器と大体同じ内容でI式とII式が位置付けられることとなった。
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