研究略史と年代に関する論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 01:30 UTC 版)
「エル・オペーニョ文化」の記事における「研究略史と年代に関する論争」の解説
エル・オペーニョ文化の墓は、1938年にE.ノゲーラ(Nogera)によってエル・オペーニョで3基の竪坑墓が調査されて以来、1970年までに9基の墓が発見され、さらに1991年に3基発見されている。当初、盗掘者に荒らされていて、考古学者による良好な調査が十分に行われてこなかった事情もあって、1960年代には、土偶や石偶の形状からオルメカやメキシコ中央高原の影響がみられるから先古典期中期であると主張する研究者、ロバート・チャドウィック(Robert Chadwick)のようにネガティブ技法の土器や首級ないし頭蓋骨のみの埋葬であるいわゆるskull burialは、オアハカ地方のモンテ・アルバンⅡ期、そしてグアナファト州南端のチュピクアロ後期、メキシコ中央高原ではテオティワカンⅡ期並行であり、先古典期後期から原古典期のものであると主張する研究者もいて混沌としていた。 しかし、1970年、コリマ地方で長らく考古学調査を行ってきたイサベル・ケリー(Isabel Kelly)は、アルメリア川流域を中心として特徴的な土器のアッセンブリッジが見られることを発見し、これをカパチャ相と名づけた。カパチャ相の墓の放射性炭素年代測定を行うと紀元前1450年という結果が得られた。一方、Anturo Oliverosによって調査され、1974年に報告された2基の墓からは、後述するように16体の土偶とメキシコ中央高原のトラティルコのものによく似た土器とカパチャ相のものによく似た土器が発見され、放射性炭素年代測定を行うと紀元前1500年という結果が得られ年代についてはほぼ決着がついた。
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