関保之助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 22:16 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動関 保之助(せき やすのすけ、1868年5月2日(慶応4年4月10日) - 1945年(昭和20年)5月25日)は、明治から昭和時代にかけての有職故実家[1]。東京帝室博物館学芸委員、重要美術品等調査委員[2]。有職故実、甲冑武器の考証家として著名だった[2]。蒐集家としては東都において小堀鞆音に並ぶ存在として知られた[3]。筆名に波爾和、号に花郷、加和羅廼舎、箙廼舎[1]。
略歴
江戸小石川原町(現・文京区)に一橋徳川家臣・関守真の二男として生まれる[4]。幼い頃より古武器を愛好し、歴史画家を志して、明治23年9月に東京美術学校に入学した[5]。同期に横山大観・下村観山らがいた。日本画を学び、明治26年7月、同校の第1回卒業生として専修科絵画科を卒業した[4]。卒業制作は「藤原式室内装飾図」で、パリ万国博覧会にも出品された[4][6] 。卒業後、石川県工業学校教諭となる[7]。乱視のために画家を諦め、有職故実研究に従事する[8]。
東京美術学校助教授、帝国美術歴史編纂掛を経て、明治34年帝国大学史料編纂委員、大正8年京都帝室博物館学芸委員、11年同館列品課長、13年奈良帝室博物館列品課長、昭和8年東京帝室博物館学芸員を歴任した[9]。母校のほか、京都帝国大学でも教えた[1]。明治41年には靖国神社附属遊就館整理事業の整理委員も務めている[3]。明治37年に結婚し、二男一女をもうけた[7]。
著書に『式正の鎧』(口述)などがあるが僅少で、講演や談話で自説を開陳することが多かった[3]。
東京大空襲により渋谷区千駄ヶ谷2丁目の自宅で二男夫婦以外の家族とともに戦災死した[2][3][7]。昭和25年に従五位叙せられた[7]。
脚注
- ^ a b c 関保之助(読み)せき やすのすけコトバンク
- ^ a b c 関保之助 日本美術年鑑所載物故者記事東京文化財研究所(閲覧日 2021-02-02)
- ^ a b c d 関保之助と明治41年の遊就館整理事業 (PDF) 静岡県立美術館村上敬
- ^ a b c 『日本美術院百年史』日本美術院, 1989, p841
- ^ 『考古の巨星: 末永雅雄と橿原考古学研究所』向谷進, 文藝春秋, 1994, p26
- ^ “巴里博覧会出品(監査合格の続)”. 国民新聞: p. 5 (雑報). (1899年10月29日(明治32年))
- ^ a b c d 『日本考古学選集 5』斎藤忠,末永雅雄編、築地書館 1975、p212
- ^ 『謎解き伴大納言絵巻』黒田日出男、小学館, 2002, p68
- ^ 関 保之助(読み)セキ ヤスノスケコトバンク
関連項目
外部リンク
- 『式正の鎧』 (人文書院, 1938)
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