高橋健自とは? わかりやすく解説

たかはし‐けんじ【高橋健自】

読み方:たかはしけんじ

[1871〜1929]考古学者宮城生まれ東京帝室博物館勤務して古墳時代の鏡や埴輪などの研究貢献。著「鏡と剣と玉」など。


高橋健自

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/03 05:03 UTC 版)

高橋 健自
人物情報
生誕 (1871-10-01) 1871年10月1日
日本 宮城県
死没 1929年10月19日(1929-10-19)(58歳没)
日本 東京府下谷区
出身校 東京高等師範学校
学問
研究分野 考古学
研究機関 東京帝室博物館
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高橋 健自(たかはし けんじ、1871年10月1日明治4年8月17日〉 - 1929年昭和4年〉10月19日[1])は日本考古学者。主として弥生時代古墳時代を研究領域とした。日本考古学の発展に大きな足跡をのこした研究者である。

経歴

1871年10月1日(明治4年8月17日)、仙台県仙台城下町(現宮城県仙台市)の仙台藩士の家に生まれる。東京高等師範学校では三宅米吉に師事し、1893年に卒業[2]

1904年(明治37年)東京帝室博物館(現・東京国立博物館)にはいり、博物館員から鑑査官、歴史課長を歴任した。その一方で日本考古学会を主宰しての幹事をつとめ、『考古学雑誌』を刊行、考古学の発展と普及につくした。喜田貞吉とは古墳の年代決定をめぐって論争となっている。1922年大正11年)、『考古学雑誌』に「考古学上より観たる邪馬台国」を発表し、邪馬台国の所在地を畿内とする説に立った。1929年昭和4年)10月19日、東京府下谷区上根岸(現・東京都台東区根岸)の自宅において脳膜炎のため死去[3][4]、享年59。墓所は仙台市宮城野区榴岡の孝勝寺にある。

著書

編集

共著

共編

脚注

  1. ^ 東京堂年鑑編輯部編『出版年鑑 昭和5年版』東京堂、1930年、p.34
  2. ^ 『東京高等師範学校一覧』高等師範学校、1898年、p.202
  3. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)16頁
  4. ^ 『出版年鑑 昭和5年版』東京堂、1930年、p.34。

外部リンク

公職
先代
三宅米吉
東京帝室博物館歴史課長
1921年 - 1929年
次代
(欠員→)大島義脩



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