論争と推定と
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:58 UTC 版)
古代のヒスイ文化が忘れ去られたまま、日本は明治維新を迎えた。日本各地の縄文時代から古墳時代にかけての遺跡や古墳からヒスイの大珠や勾玉が見つかることは、すでに江戸時代から知られていた。著名な例として、1665年(寛文5年)に真名井遺跡(島根県出雲市大社町)で発見されたヒスイ製の勾玉があげられる。出雲大社の造営の際、命主神社(出雲大社本殿東南東から約300メートル先)の裏手にあった大石の下から銅矛とともに発見され、「出雲大社の勾玉」として名高い。ただし、当時は日本国内にヒスイが産することは知られておらず、加工遺跡も発見されていなかった。 ヒスイの産地と加工場所については、明治末期から昭和初期にかけて考古学界でさまざまな意見が出されていた。そしてヒスイの原産地である糸魚川では産出が途絶えたわけでもないのにその存在が忘れられて、良質のヒスイ原石が漬物石や屋根の重石などに使用されていたほどであった。 糸魚川は鉱物資源が豊富な地域であり、大正時代には黒姫山の石灰石が石灰窒素の原料として採掘が開始されていた。青海川の流れを利用して造られた水力発電を使って石灰の製造が始まったものの、その青海川の河原に存在したヒスイ原石には誰も注意を払わなかった。宮島宏はこの点について「糸魚川を訪れた学者や鉱山関係者も翡翠に気がつくことなく、河や海にある美しい石が長い間、注目されなかったのは大きな謎です」と疑問を呈している。ただし、藤田亮策によれば、地元の人々は大正年間から小滝川のヒスイ原石の存在に気づいていた。1935年頃には鉱区出願の計画も2.3あったというが、この原石がヒスイであることが確実になるには、河野義礼による研究の成果を待たねばならなかった。 ヒスイの産地については、日本国外産出説と日本国内産出説があった。日本国外説を唱えた学者のうち、高橋健自、濱田耕作、樋口清之、八幡一郎らはミャンマー・中国雲南地方、チベットなどからの渡来を主張した。他方、後藤守一は産地を中国東北部やシベリアであるとした。 原田淑人は日本国外からヒスイが渡来したのであればヒスイとともに渡来したものが存在したはずとし、それがないことから日本国内もしくはその近くに未知のヒスイ産地があると考えた。日本国外説を唱えた高橋は、勾玉が日本独自のものであり、日本国外産のヒスイ原石を使って日本国内で制作されたものと推定した。 日本国外説を採る学者にも、後藤のように日本国内の産地調査の必要性を認める者がいた。また、当初日本国外説を唱えていた八幡は、後に原田の日本国内産出説に同調した。八幡が「産出の可能性が高い」と推定したのは岐阜県飛騨の高原川と、長野県から新潟県を流れる姫川流域であった。 混乱を助長したのが朝鮮半島におけるヒスイの出土であった。19世紀末には慶尚南道金海付近でヒスイ勾玉の出土が確認されていたが、1910年代前半には朝鮮半島南部の広い範囲でヒスイ勾玉が出土し、大型で品質的にも優れたものも少なくなかった。1921年には慶州金冠塚古墳で出土した冠に多くのヒスイ勾玉が飾られていることが確認され、また他の慶州の古墳からも多くのヒスイ勾玉が出土した。 朝鮮半島からのヒスイ勾玉の大量発見は、ヒスイの起源が朝鮮半島ではないかとの仮説や、それに対して朝鮮半島のヒスイ勾玉は半島南部のみで見つかることから、日本からもたらされたものであるとの説が出された。1930年、これまでの考古学的発見を踏まえて後藤守一は、雲南やビルマ方面から中国人の手によって日本にヒスイがもたらされたとしたら、なぜ日本に輸出する前に自己用に消費しなかったのか、どうして産地が日本に近い軟玉が日本に多く持ち込まれることが無かったのかと主張した。
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