論争と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 09:24 UTC 版)
「ジョン・ギューリック」の記事における「論争と評価」の解説
1888年の論文はアルフレッド・ウォレスからの厳しい非難を浴びた。ウォレスは激しく非難した。彼はネイチャー誌に強い批判のコメントを載せた。その文章は彼がギュリックから論文を受け取り、リンネ協会での雑誌掲載の力添えを求められたという話に始まり、しかしそれに添えた手紙に『自分はこの論文を読んでいない』し推薦も『したくない』と書いた、と続け、さらに『この長大な論文のほとんどすべてのページに疑問点と間違いが見受けられる』とまで書いた。彼の論点は地理的隔離が起きる場合、その場の違いで環境が違うのは当然であり、その結果種が変わるとすればその違いに基づく自然選択の結果であること、彼の論文には自然選択に変わる新しい原理は何一つない、といったことであった。ギュリックが「別の種が同じ環境にすんでいる」とした点も、ウォレスは「単にあなたには違いが見えないだけだ」と言ったとされる。これは、この時期、すでにダーウインはおらず、ウォレスがダーウィンの理論の護り手を自ら任じていたような流れがあり、「適応論者」としてギュリックの考えが許せなかったと言うことがあったと思われる。 これに対してギュリックも反論を載せることを考えたが、論争の場になることを恐れた編集者に止められた。代わりにロマネスが反論文を掲載し、ウォレスの論が『自然選択で何でも説明できるという憶測』に基づくものだと返している。 この論争そのものは決着に至らなかったものの、これは進化に自然選択以外のプロセスが存在し得ることを多くのひとに印象づけ、またギュリックを当時世界で最も影響のある進化学者と見なされる役割を果たした。 ただし彼が1905年に彼の集大成とも言える書を出した時、評価は高かったものの、その影響は大きくなかった。この時期、メンデルの遺伝法則が再発見され、進化論はそれに関わって生まれた突然変異説が注目を受けていたのである。メンデルの法則は生物の形質が不連続な変異に結びつけられ、その点でダーウィン説と折り合わないと、この時期には考えられていた。ギュリック自身はメンデル遺伝と自然選択が矛盾しないと理解し、そのことを息子への手紙に記しているが、この当時の生物学者ではこれは少数派だった。彼の説が見直され、その重要性が理解されるには、ダーウィン流の進化論がメンデル流の遺伝学と結びつき、いわゆる総合学説が生まれる1930年代まで待たねばならなかった。
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