後古典期
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後古典期(こうこてんき、Post Classic period(Stage,era))は、メソアメリカの考古学の時代区分。
マヤ文明で日付けの刻まれた最後の石碑であるトニナーの記念碑101号に刻まれた長期暦の10.4.0.0.0.(紀元909年)を開始の基準として、900年に置く。この時期までに古典期マヤの中部地域の都市は、ほとんど放棄されていた。
後古典期の終わりは、諸説ある。主なものとしては、アステカ帝国滅亡(1521年)までと考える場合、マヤではペドロ・デ・アルバラードによってグアテマラ高地のキチェー王国が滅ぼされ、スペインのグアテマラ征服が完了したのが1524年なので、この年におく場合である。しかし、フランシスコ・デ・モンテーホのユカタン征服事業も同時進行で行われていたので、それが一応完了してメリダが建設された1542年におく場合も、しばしば終了の年代に挙げられる。インカ征服が1532年であったことに合わせ、おおむね1520 - 1530年代においている。
関連項目
後古典期(A.D.950年 - 1524年)
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「マヤ文明」の記事における「後古典期(A.D.950年 - 1524年)」の解説
「プトゥン人」も参照 後古典期(A.D.950-1524)には、北部でチチェン・イッツァを中心とする文明が栄えた。チチェン・イッツァの衰退後、12世紀ごろにマヤパン(Mayapan)が覇権を握り、15世紀中期までユカタン半島北部を統治した。マヤパン衰退後は巨大勢力はどこの地域にも出現せず、スペイン人の侵入にいたるまで群小勢力が各地に割拠していた。またこの時期は交易が盛んになり、コスメル島(Cozmel Island)などの港湾都市や交易都市が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。
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