後古典期とは? わかりやすく解説

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後古典期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/22 00:25 UTC 版)

後古典期(こうこてんき、Post Classic period(Stage,era))は、メソアメリカの考古学の時代区分。

マヤ文明で日付けの刻まれた最後の石碑であるトニナーの記念碑101号に刻まれた長期暦の10.4.0.0.0.(紀元909年)を開始の基準として、900年に置く。この時期までに古典期マヤの中部地域の都市は、ほとんど放棄されていた。

後古典期の終わりは、諸説ある。主なものとしては、アステカ帝国滅亡(1521年)までと考える場合、マヤではペドロ・デ・アルバラードによってグアテマラ高地のキチェー王国英語版が滅ぼされ、スペインのグアテマラ征服が完了したのが1524年なので、この年におく場合である。しかし、フランシスコ・デ・モンテーホのユカタン征服事業も同時進行で行われていたので、それが一応完了してメリダが建設された1542年におく場合も、しばしば終了の年代に挙げられる。インカ征服が1532年であったことに合わせ、おおむね1520 - 1530年代においている。

関連項目


後古典期(A.D.950年 - 1524年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/12 06:43 UTC 版)

マヤ文明」の記事における「後古典期(A.D.950年 - 1524年)」の解説

プトゥン人」も参照 後古典期(A.D.950-1524)には、北部チチェン・イッツァ中心とする文明栄えたチチェン・イッツァ衰退後12世紀ごろにマヤパン(Mayapan)が覇権握り15世紀中期までユカタン半島北部統治したマヤパン衰退後巨大勢力はどこの地域にも出現せず、スペイン人侵入にいたるまで群小勢力各地割拠していた。またこの時期交易盛んになり、コスメル島(Cozmel Island)などの港湾都市交易都市が、カカオ豆ユカタン半島の塩などの交易繁栄した

※この「後古典期(A.D.950年 - 1524年)」の解説は、「マヤ文明」の解説の一部です。
「後古典期(A.D.950年 - 1524年)」を含む「マヤ文明」の記事については、「マヤ文明」の概要を参照ください。

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