後史:後南朝
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「南北朝時代 (日本)」の記事における「後史:後南朝」の解説
詳細は「後南朝」を参照 合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝と呼ばれる。彼らの抵抗は持明院統嫡流が断絶した正長元年(1428年)以後、激化することとなる。 嘉吉3年(1443年)には南朝の遺臣や日野一族が御所に乱入し南朝皇族の通蔵主・金蔵主兄弟をかついで神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変が起きる。宝剣はすぐに幕府の手で取り戻されたが、神璽は後南朝に持ち去られたままになる。 後南朝は、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、長禄元年(1457年)に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還されることによって、実質的に滅亡した。 最後に史料に登場するのは、『勝山記』に明応8年(1499年)霜月(11月)、伊豆国三島に流された「王」を、早雲入道が諌めて相州(相模国)に退去させたというものがあり、これが後南朝の史料上の終焉とされている。
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