後古典期のユカタン半島とコスメル島とは? わかりやすく解説

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後古典期のユカタン半島とコスメル島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/11 00:16 UTC 版)

プトゥン人」の記事における「後古典期のユカタン半島とコスメル島」の解説

プトゥン人たちのユカタン半島北部における交易路結節点後古典期前期13世紀まで)はチチェン・イッツァコスメル島であったコスメル島は、海上交易中継地としては便利であったが、標高低く長期降雨があったり、ハリケーン襲われる水没するような地形であるため、プトゥン人たちは、商品集積所として石灰岩荒石積みの「水塚」を島内北部に6か所、南部最大規模のものとして知られるブエナ・ヴィスタの「水塚」を築いた。ヴェナ・ヴィスタの「水塚」は、平均5mの高さに達し複数の「水塚」がつなぎあわされ面積は7haを超えるものであった。これらの「水塚」は、搬送路として石灰岩敷石葺かれた「提道」で結ばれていた。また外部侵略者警戒し、のろしを上げたりするための防御施設20所以上築かれ、現在は14か所残されている。 サブロフは、13世紀になってチチェン・イッツァ放棄されると、プトゥン人たちは、チチェン・イッツァ中心部建物小規模にして建設したマヤパン建設してチチェン・イッツァ代わりに交易路結節点としての役割を担わせたとするが、マイケル・コウは、1200年ごろ、カンペチェ湾岸のチャンポトン(チャカンプトゥン)を追われイツァ族が、ペテン・イツァ湖をへて、現ベリーズ領内ユカタン半島東岸至り東海岸沿いを北上して半島北部に至ると横切るように西進して、当時ウウキル・アブナルと呼ばれていたチチェン・イッツァ至ったのがカトゥン4アハウ1224年 - 1244年)であり、彼らはイシュチェル信仰儀式創始しコスメル島祠堂築いたとする。マヤパン建設されたのは、カトゥン13アハウ1263年 - 1282年)とする。

※この「後古典期のユカタン半島とコスメル島」の解説は、「プトゥン人」の解説の一部です。
「後古典期のユカタン半島とコスメル島」を含む「プトゥン人」の記事については、「プトゥン人」の概要を参照ください。

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