メソアメリカ
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メソアメリカ(Mesoamerica)は、メキシコおよび中央アメリカ北西部とほぼ重複する地域において、共通的な特徴をもった農耕民文化ないし様々な高度文明(マヤ、テオティワカン、アステカなど)が繁栄した文化領域を指し、パウル・キルヒホフの文化要素の分布研究により定義された。地理的には、北はメキシコのパヌコ川からシナロア川あたりまで、南はホンジュラスのモタグァ河口あたりからコスタリカのニコヤ湾あたりまでであるが、この境界線は歴史的に一定していたわけではない。
- ^ 佐藤徹「年表」 増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史I』所収 山川出版社 1999年
- ^ “青山和夫「マヤ文明 最新の研究成果」 NHK解説委員室”. NHK. 2023年8月2日閲覧。
- ^ 山田睦男「総説世界史のなかのラテン・アメリカ」、増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史I』山川出版社 1999年
- 1 メソアメリカとは
- 2 メソアメリカの概要
メソアメリカ
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アステカ文明における造園は君主や上流階級向けの娯楽または職種であり、湖にあるチナンパという浮島が特徴的である。チナンパは基本的に農作用であったが、アステカ庭園も湖水を利用するためにその近辺の岩を掘削して造られた。その起源は紀元1千年紀のテオティワカンに遡るとされるが、大きく発展したのは15世紀になってからであった。アステカ庭園はテノチティトラン近郊の神聖なプライバシー空間と、テスココ湖の島における狩猟園という2種に大別される。そこには宮廷や浴場、劇場、墓地を含むこともあり、道の傍には灌漑用水路と平行した花とともにメキシコラクウショウ(英語版)やセコイアが並べられていた。 テスココのネサワルコヨトルによるチャプルテペクではテラスのある丘上の植林とランの育成が記録されているほか、テスコツィンコの別荘の草花には丘から数キロに及ぶ水路を通じて水が送られてきていた。モクテスマ1世はオアステペック(英語版) での造園に際して10キロもの柵とダム湖を造らせ、その周りに多様な熱帯の植物を置いた。アシャヤカトルは庭園を保有する者らに風光明媚な景観設計をするよう促し、彼が擁した遊園は様々な鳥類や爬虫類がいる動物園のようであったという。彼らによるこうした数々の庭園は侵攻してきたスペイン人らに美しい果樹園として驚かれ、そして記録されたが、コルテスらの制圧段階にて打ち壊されてしまった。チャプルテペクは征服者の狩猟園および屋敷として改造された後、現代では公園となっている。 インカ帝国の庭園に関する記録はあまり残されていないが、ウィリアム・H・プレスコット(英語版)によると、現在のペルー一帯で採掘された大量の金銀により、煌びやかなパルテール(英語版)と水路、池などが造られていた。ユカイ(英語版)にあった庭園でも現地の熱帯固有の草花が彩り、銀の水道と金の貯水池により水が提供されていたという。インカ人は後述するペルシア人のように技巧を凝らした灌漑用水路を山の湖などから引いており、その全長は650キロ以上、縦1.5メートル、横1メートルの規模であった。
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メソアメリカ
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「マヤ (曖昧さ回避)」の記事における「メソアメリカ」の解説
マヤ文明 - メキシコ南東、ベリーズ、グアテマラ一帯で繁栄した文明。9世紀に衰退した古典期マヤ文明が有名だが、その後もマヤ文明は続いている。マヤ人 マヤ地域 マヤ語族 マヤ文字
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メソアメリカ
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メソアメリカでは、メキシコ、ゲレーロ州にオルメカ文明の概念を表現した洞窟壁画がオシュトティトラン(Oxtotitlan)やフストラワカ(Juxtlahuaca)などで見られる。また、マヤ文明の遺跡にも洞窟遺跡が多数知られており、そのうち、ロルトゥン(Loltun)、ナフ・トゥイニチ(Naj Tunich)の壁画が著名である。
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メソアメリカ
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モンテ・アルバン(メキシコ、オアハカ州)→サポテカ文化の「首都」で標式遺跡 イサパ(メキシコ、チアパス州)→イサパ文化、イサパ様式の標式遺跡 テオティワカンについては、街区名や地域名が用いられる。e.g.ミッカオトリ(=死者の大通り)期 マヤ文明 北部低地→ジビルチャルトゥン 中部低地→ティカルの北方のワシャクトゥン 先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分(phaseと呼ばれるので「相」、又ceramic complexが多用されるので「土器複合」)名が使用される。 e.g.先古典期中期後半(マモム期)、先古典期後期(チカネル期)、古典期前期(ツァコル期)、古典期後期(テペウ期) 南部高地→カミナルフュー
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メソアメリカ
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サポテク語の最も古い文字記録。(おおよその年代) オルメカが聖都モンテ・アルバンを建設し、以降もピラミッドの建設を継続する。中期形成期 (the Middle Formative period) 末の紀元前500年ころに創建されたモンテ・アルバンは、終期形成期 (the Terminal Formative period) の紀元前100年から紀元200年ころにかけて、オアハカ高原一帯の広域に拡大した行政体の首都となっており、北方のテオティワカンなど、メソアメリカの他の地域国家との交流を行なっていた (Paddock 1983; Marcus 1983)。
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メソアメリカ
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詳細は「メソアメリカ」を参照 サポテカ文明 サポテカ文明は紀元前1500年頃に現れた。その筆記システムが後にオルメカに影響した。彼等は巨大都市モンテ・アルバンを残した。 オルメカ オルメカ文明は紀元前1200年頃にメソアメリカに現れ、紀元前400年頃に終わった。オルメカの技術と概念がその没落後に周辺の文化に影響を与えた。この文明はアメリカで筆記システムを開発した最初の文化と考えられた。オルメカが不明の理由でその都市を放棄した後に、マヤ、サポテカおよびテオティワカン文化が起こった。 プレペチャ プレペチャ族による王国すなわちタラスコ王国は西暦1000年頃にメソアメリカに現れた。彼等は西暦1100年から1530年まで繁栄した。現在でもミチョアカン州に住み続けている。彼等は勇猛な戦士であり、その栄光の時代には決して征服されることなく、アステカの支配から広大な地域を守った。 マヤ マヤ文明の歴史は3000年に跨っている。マヤは10世紀の終わりに気象の変化によって崩壊した可能性がある。 トルテカ トルテカは遊牧型民族であり、10世紀から12世紀に栄え、その言語はアステカでも使われた。 テオティワカン テオティワカン(紀元前4世紀 - 紀元後7世紀ないし8世紀)は都市と同じ名前の帝国を指し、西暦150年から5世紀の間の絶頂期にはメソアメリカの大半を支配した。 アステカ アステカは14世紀ころにその帝国を建設し始めており、その文明はスペインの征服によって急速に滅んだ。彼等はメソアメリカや周辺の地域に住んだ。その首都テノチティトランは全時代を通じて最大級の都市だった。
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メソアメリカ
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メソアメリカ文明は、寒冷な高地と、熱帯の低地に大きく分かれる。石器を発達させたマヤ文明では、道具や装身具に用いる石材の交易が盛んで翡翠や黒曜石が重要な品とされ、ほかに装身具となるケツァールの羽根や、低地で産するカカオも珍重された。ただし、メソアメリカには運搬に適した大型の家畜や車輪が存在せず、人力で運ばれたため、穀物のようなかさばる物資の貿易には制約となった。2世紀から6世紀にかけてのメキシコ中央高地では、テオティワカンが黒曜石の交易で繁栄した。 マヤ地域の南東部のモタグア川は上流で黒曜石、中流で翡翠を産出して、高地と低地をつなぐ交易路となった。モタグア川が合流するコパン川流域では、3世紀から8世紀にかけてコパンが黒曜石を低地の都市に輸出して発展した。コパンは高地のイシュテペケ(英語版)から黒曜石を採掘して主に刃物として用いており、中でも緑色黒曜石が珍重された。また、コパンには生息しないウミギク貝が翡翠とセットで発見されており、地域間の広範な交流や交易が存在したとされる。コパンは738年に属領であったキリグアとの戦いに敗れて、交易路の支配権を失う。古典期マヤ文明は8世紀に衰退し、かわってプトゥン・マヤ人がユカタン半島で海上貿易のルートを開拓する。
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メソアメリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:05 UTC 版)
メキシコ高原を中心とした北アメリカ南部からグアテマラを含む中央アメリカ北部に至る地域。この地域を起源地とする代表的な植物はトウモロコシで、このほかインゲンマメとカボチャなどが7000年前の農耕で栽培化されたと考えられている。このほか、サツマイモ、トウガラシ、バニララン、リクチメン(綿)、カカオなどの起源地である。
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メソアメリカ
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「インカルチュレーション」の記事における「メソアメリカ」の解説
新大陸では聖人崇拝が盛んであり、その受容も多様である。新大陸の布教において、宣教師たちは土着の宗教と偶像崇拝を否定した。そして、キリスト教の教義の理解を助けるために聖人の図版などを活用し、聖人にまつわる奇跡譚を聞かせた。ところが、先住民たちは聖人を人間の姿をした不思議な力を持つ聖なる存在として理解し、村の説話や禁じられた土着の神、霊的存在と習合させて崇めるようになった。また、守護聖人の概念が重要視され、各々の村に敬愛される守護聖人がいる。こうした地域固有のカトリック信仰は、メソアメリカの民族史学者によって「フォークカトリシズム」「民衆カトリック」と呼ばれている。
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メソアメリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:36 UTC 版)
「en:Mexican ceramics」および「マヤ文明」も参照 メソアメリカ(中米)地域で土器がみられるようになるのは、紀元前1700年頃(「先古典期」または「形成期」)である。器種には無頸壺(テコマテ)や外に開いた平底の浅鉢などがあり、無頸壺とは球形ないし卵形の容器の上方を水平に切断した形の壺形土器である。紀元前1500年頃、グアテマラの太平洋沿岸を中心にオコス様式土器が使われるようになり、グアテマラ高地、チアパス高地、グリハルバ川流域、メキシコ湾岸低地、さらにオアハカ高原、メキシコ高原などへと広がっていった。この拡大は土器と定住農耕が結びついた生活様式の普及を意味していると考えられる。紀元前1200年頃から前800年頃にかけては、メキシコ湾岸の熱帯雨林地帯でオルメカ文化が興り、人工のマウンドと巨岩彫刻の特徴的な大規模な祭祀センターが何か所か成立する。 こうした社会統合の進展を基礎として、紀元前後から紀元後600年頃までメキシコ中央高地においてテオティワカン文明が繁栄する。太陽のピラミッドで知られる都市国家テオティワカンは最盛期の5世紀〜6世紀で10万人を数えたと推定される。ここでは、土器・土偶を製作する工房や宝石(翡翠・黒曜石・雲母など)・貝・玄武岩の加工工房、磨製石器製作工房など職人の仕事場が500か所以上に及び、原材料と製品の流通と特殊工芸生産の掌握が都市の繁栄を支えたと推定されるが、反面、農村部では目立った遺構が検出されず、都市と農村の格差のきわめて大きい社会であったと考えられる。 3世紀の終わり頃、ユカタン半島のオコス土器文化を継承してきた焼畑農耕民社会はオルメカ文化やテオティワカン文明の影響も受け、マヤ文明を誕生させた。これを以てメソアメリカでは「古典期」の始まりとしている。マヤ文明は独自の文字(マヤ文字)や暦(マヤ暦)を有して900年前後まで続き、地域的には、ユカタン半島付け根部分を中心に現在のグアテマラ北部、メキシコのタバスコ州、ホンジュラス西部、ベリーズといった地方に拡がり、いくつもの都市を出現させ、石造建築には特に優れた能力を発揮した。 古典期マヤ文明(250年〜900年)に特徴的な土器は、碗型、円筒型、皿型などの器形をもつ多彩色土器で、器面に歴史的な出来事や神話の一場面と思われる事象を描き、マヤ文字を付すというものである。これらの土器には強い斉一性がみられる反面、地域性も明瞭に認められるところから、活発な長距離交易と同時に強大な権力を持たないマヤの都市連合的性格などがうかがわれる。また、テオティワカンに起源をもつ三脚付円筒土器はマヤ文明においても極めて広範囲から出土しており、交易品であったことが推測される。 マヤ文明衰亡後の「後古典期」(900年頃〜1500年頃)のメソアメリカでは、刻文や型押し文をともなう、緻密な胎土を用いたオレンジ色の土器がマヤの各地に広がっていった。光沢のある焼成のよい土器については「鉛釉土器」(英語: Plumbate Ware)と呼ぶこともあるが、しかし、実際に鉛釉がかけられているわけではない。 バルディビア文化の碗型土器(エクアドル) メソアメリカの注口土器(メキシコ) 紀元前200年〜後500年 犬形容器(メキシコ、コリマ州) 前2世紀〜後3世紀 アヒルの置物(メキシコ) 250〜650年 人形容器(メキシコ、テオティワカン) 4世紀〜5世紀前半 人物座像(メキシコ、テオティワカン) マヤ文明 多彩色の三脚付円筒土器(メキシコ) マヤ文明(550年〜850年)多彩色の三脚付円筒土器(出土地不明) マヤ文明 人面壺(メキシコ) 5世紀〜12世紀 注口土器(コロンビア) 後古典期(900年〜1200年)三脚付円筒土器 「鉛釉土器」(グアテマラ) 後古典期 怪獣面付壺「鉛釉土器」(メキシコ、イダルゴ州) 9世紀後半〜14世紀 碗型土器(コロンビア)
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メソアメリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/13 21:22 UTC 版)
詳細は「古典期 (メソアメリカ)」を参照 メソアメリカ考古学の領域で「古典期 Classic Period (Stage,era)」と言うと、時代区分のひとつで、西暦300年頃から西暦900年までを指す。始期は、グアテマラ・ティカル出土のライデン・プレートにある長期暦の日付(紀元320年)や29号石碑に刻まれた8.12.14.8.15.(紀元292年)頃を目安としている。一方、終期はトニナーの記念碑101号に刻まれた長期暦の10.4.0.0.0.(紀元909年)を目安としている。この時期までに古典期マヤの諸都市は放棄された。 ゴードン・ランドルフ・ウィリー(Gordon R.Willey)とフィリップ・フィリプス(Philip Phillips)によって1958年に著されたMethod and Theory in American Archaeologyで、新大陸全体の考古遺跡について編年の枠組みを構築しようと試みた五段階時期区分(石期(Lithic)、古期(Archaic)、形成期、古典期(Classic)、後古典期(Postclassic))の四番目の時期として位置づけられたのが初出である。その後、アンデス文明については、アメリカの人類学者たちやルイスG.ルンブレラスの提唱した編年が用いられるようになったため、現在では主としてメソアメリカのみで使われている編年用語である。 一般的には、テオティワカンの影響の強い前期と、マヤ諸都市国家が争った後期とに分ける。以前はテオティワカンの影響は5世紀から開始すると考えられていたので、わざわざ中期(Middle Classic)を置く考え方もあった。 古典期という名称は、古代ギリシア、ローマの古典古代のイメージでギリシャのようにマヤ諸都市が繁栄した時期というイメージの名称であるため、メソアメリカ全体の時代区分としては問題があると言われている。アンデスと統一するため、前期ホライズン(Early Horizon/メソアメリカ;オルメカ/アンデス;チャビン)、前期中間期(Early Intermediate Period/モンテ・アルバンⅡ期、原古典期、イサパなど/地方発展期=モチーカ、ナスカ)、中期ホライズン(Middle Horizon/テオティワカン/ワリ)、後期中間期(Late Intermediate Period/ショチカルコ、トルテカ、マヤ/地方王国期=シカン、チムー)、後期ホライズン(Late Horizon/アステカ/インカ)という区分を主張する研究者もいる。
※この「メソアメリカ」の解説は、「古典期」の解説の一部です。
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