デスゾーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/05 13:57 UTC 版)
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デスゾーン(英語: death zone)とは、人間が生存できないほど酸素濃度が低い高所の領域を指す登山用語。
標高が8,000mでは、空気中の酸素濃度は地上(海抜ゼロメートル地帯)の約3分の1となる。この領域は、ヒマラヤ山脈の8000メートル峰に挑戦する登山家から「デスゾーン」と呼ばれている[1]。デスゾーンでは人体は高所順応せず、酸素が補充されるよりも早く酸素の蓄えを消費する[2]。酸素ボンベなしでデスゾーンに長時間滞在すると身体機能の悪化や意識の低下が起こり、最終的には死に至る。
「デスゾーン」という言葉は、1952年にスイス人医師エドゥアール・ヴィース・デュナンの著書において、初めて用いられた[3]。
関連図書・映画
- アナトリ・ブクレーエフ著『デス・ゾーン8848M エヴェレスト大量遭難の真実』 角川書店、1998年、ISBN 4-04-791304-9
- 『デス・ゾーン 奇跡の生還』 アメリカ映画、2000年、マイケル・スィッツァ監督
脚注
- ^ バース・デイの過去のオンエア(2010年1月25日) TBSテレビ、2011年1月8日閲覧。
- ^ 高山病と高所順化 パタゴニア(南米トレッキング情報)、2011年1月8日閲覧。
- ^ Schott, Ben (2010年1月9日). “Death Zone”. New York Times
関連項目
- 高山病
- 高度が人に与える影響
- 8000メートル峰
- デッドゾーン (エコロジー) - 海の低酸素状態エリア。
デスゾーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 06:12 UTC 版)
「ゲルリンデ・カルテンブルンナー」の記事における「デスゾーン」の解説
標高8000mからは人間の行動力や判断力が著しく鈍り、死と隣り合わせであるので「デスゾーン」と呼ばれる。第4キャンプから山頂までは標高差600mに過ぎないが、2008年に11人の死者を出した遭難事件以来ここに到達したのはゲルリンデらのメンバーが最初である。8月22日、4人は第4キャンプを出発し、「ジャパニーズ・クロワール」に到達した。「ジャパニーズ・クロワール」には胸まで沈む新雪が積もっており、6時間かかっても180mしか進むことが出来なかった。ラルフは無線で一度第4キャンプに戻ることを勧めたが、一行は最終的に8300mの地点で2人用の小さなテントを張ることにした。氷を切り崩して平面を造りテントを固定するだけで1時間30分かかり、午後8時過ぎに4人はテントに入ることが出来た。午前1時頂上に向けて最後のアタックを始めようとしたが、指先の感覚が無く、足も氷の塊を引きずっているようで体の震えも止まらなかった。とてもアタックは無理と判断されテントに戻って暖を取り、夜明けを待って出発した。ゲルリンデのリュックの中は手袋、トイレットペーパー、サングラス、包帯といった最低限の物品とスポンサーのオーストリアの石油会社の旗と仏像を入れた銅製の小箱が入っていた。午前7時に出発して130mの雪の斜面を目指した。午後3時に斜面の麓に到達。斜面では胸まで埋もれる雪に進路を阻まれ10歩毎に隊列の先頭を交代した。ラルフはその様子を麓から双眼鏡で観察してアドバイスを送った。やがて斜面は傾斜60度の岩場となったが積雪は浅くなり、一行は斜面を抜けて頂上に繋がる尾根に出ることに成功した。午後4時30分には山頂ドームが見えてきた。ゲルリンデは午後6時18分に山頂に到達。15分遅れてマクストとバシリーが到着、30分後にダリウスも到着した。オーストリアのヴェルナー・ファイマン首相は「偉業に感銘を受けた」と讃えた。カザフスタン首相はマクストとバシリーへの賛辞をツイッターに書き込んだ。
※この「デスゾーン」の解説は、「ゲルリンデ・カルテンブルンナー」の解説の一部です。
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