遭難事件とは? わかりやすく解説

遭難

(遭難事件 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/07 03:05 UTC 版)

遭難(そうなん)とは、生命に関わるような災難(危険)に遭うことである。特に等において、生命を失うような危険に遭遇することを言う[1]


注釈

  1. ^ 海洋遭難が主に漁師、つまりプロの遭難だから大きく報道され、それに対して山登りはレジャーをしている人たちだから大きく報道されないのだろう、と丸山は著書で推察した。
  2. ^ 生存者の佐野三治による遭難の経緯についての詳細な手記が出版されている[25]
  3. ^ 諸井清二艇長の手記も出版されている[27]斉藤実氏所有の同名船(世界最年長でヨット世界一周の記録を達成)ではないことに注意。
  4. ^ プロジェクトX第109回 「海賊襲撃 マラッカ海峡の闘い」
  5. ^ 漂流者および関係者へのインタビュー、取材を元に書籍が出版されている[29]

出典

  1. ^ 「遭難」- デジタル大辞泉
  2. ^ Why Are St. Bernards Always Depicted With Barrels Around Their Necks? MATT SONIAK FEBRUARY 18, 2009
  3. ^ a b c d e 丸山晴弘『遭難のしかた教えます : 安全で確実な登山のための辛口レクチャー』絵: 塩浦信太郎(2011年改版)〈ヤマケイ山学選書〉(原著1999年)。ISBN 978-4-635-04815-6http://www.yamakei.co.jp/products/2811048150.html 
  4. ^ 春日俊吉『山と雪の墓標 松本深志高校生徒落雷遭難の記録』有峰書店、1970年、P235-238.
  5. ^ 令和3年における山岳遭難の概況 警察庁生活安全局地域課
  6. ^ 山岳ヘリ、有料化 条例成立へ 救出時1時間5万円毎日新聞(2017年3月24日)2017年3月24日閲覧
  7. ^ 「ケルン」は登山に危険 突風で崩壊の恐れも 不要なもの撤去を指示 動植物にも悪影響『朝日新聞』昭和49年(1974年)10月3日夕刊、3版、8面
  8. ^ メキシコとの交流/千葉県
  9. ^ 岩尾 pp154-166
  10. ^ 田中 pp2-7
  11. ^ 岩尾 pp166-170
  12. ^ 岩尾 pp171-207
  13. ^ 岩尾 pp124-153
  14. ^ 岩尾 pp99-122
  15. ^ 岩尾 p126
  16. ^ 岩尾 pp49-53
  17. ^ 岩尾 pp208-240
  18. ^ 映画『白鯨との闘い』死の海域で孤立、メルヴィル「白鯨」に隠された真実とは - ロン・ハワード監督作品 ファッションプレス
  19. ^ 岩尾 p253
  20. ^ 岩尾 pp253-254
  21. ^ 岩尾 p254
  22. ^ John F. Kennedy and PT109(英語)”. John F. Kennedy Presidential Library and Museum. 2016年3月22日閲覧。
  23. ^ 全員やせこけ髭ボウボウ、救助船第一報『大阪毎日新聞』(昭和12年2月17日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p66 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  24. ^ レーススタートは1991年12月26日AM12:00
  25. ^ 佐野三治『たった一人の生還 :「たか号」漂流二十七日間の闘い』〈新潮文庫〉1995年(原著1992年)。ISBN 978-4-10-136711-8 
  26. ^ 平成4年横審第144・145号 プレジャーボートマリンマリン転覆事件、プレジャーボートたか転覆事件 - 公益財団法人 海難審判・船舶事故調査協会HP
  27. ^ 諸井清二『九十二日目の天国 : 酒呑童子号の太平洋漂流日誌』産経新聞ニュースサービス、1994年。ISBN 978-4-594-01621-0 
  28. ^ “10か月間漂流した漁師、救助される - マーシャル諸島”. AFP BB News (archive.today). (2006年8月22日). オリジナルの2012年7月17日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/oZz0 
  29. ^ 小出康太郎『流れる海 : ドキュメント・生還者』佼成出版社、1989年。ISBN 978-4-333-01354-8 
    小出康太郎『ダイバー漂流 : 極限の230キロ』〈新潮OH!文庫〉2000年。ISBN 978-4-10-290021-5 ※『流れる海』の増訂
  30. ^ Apollo experience report: Crew provisions and equipment subsystemNASA



遭難事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:04 UTC 版)

ウンベルト・ノビレ」の記事における「遭難事件」の解説

16名の隊員と共に北極点到達という大きな望み持って出発したノビレだったが、しかし極点到達後の事故はいち早く世界中配信され北半球中の救助隊動き始める。生存者たち飛行船無線機SOS発信、さらにアニリンテント赤く染めて目印とし、救助待った墜落一報が伝わるとイタリアを含むソビエト連邦ノルウェースウェーデンフィンランドなどの国々極域初の空と海の両面から救助活動とりかかる個人所有の船をチャーターして 極地研究者や探検家までも参加するノビレとの過去行き違い抱えたロアルド・アムンセンさえ、フランス水上機 en:Latham 47乗り込み救助本部に向かうが、トロムソスヴァールバル諸島の間で連絡絶ち発見されたのはポンツーン機体のみでアムンセンとルネ・ギルボー操縦士 en:René Guilbaud ならびに他の搭乗者4名は行方不明である。 6月20日彼らは捜索隊発見され国際的な救援活動開始されスウェーデン空軍パイロットのエイナー・ルンドボルイ en:Einar Lundborg、立会人としてシベルイ中尉 Schyberg のフォッカー水上機墜落現場近く着陸するのは6月24日である。ノビレの胸にあった救助計画では、優先順位は最も重傷男性 (大柄な整備工セシオニ)、ノビレ自身4番目、続く5、6番目に航海士 (ヴィグリエーリ) と通信士 (ビアギ) の順と考えていた。ところがルンドボルイは飛行機空席1つであり、ノビレ指名した重傷者は体重が非常に重く離陸できる確証がない、ノビレしか乗せない主張した。これには有名人優先したという不純なところもあったとされるが、同時にルンドボルイは「救出活動混乱しているので、あなたが先に帰って指揮執るべきだ」と、ノビレに対して筋の通った強い進言をしたとも言われている。ノビレ結局探検隊マスコット犬ティティーナ (フォックス・テリア)とともにスウェーデン・フィンランド合同航空捜索本部のある en:Ryss Island救助されたが、これは後にノビレ対す厳し非難へと繋がったこの後、ルンドボルイは単独残り生存者空輸に向かうが、遭難現場着陸時に機体破損し、残る生存者5名とともに海氷上に足止めされたことで、ノビレ一人脱出したという印象強めてしまった。 ノビレ合同航空捜索本部から自国イタリア捜索本部を置く「ミラノディチッタ」に移るが、捜索隊無能ぶりに落胆したと後に回顧している。他国協調した国際捜査チーム組み自分指揮をとるというノビレ提案反対にあい、では自分はいっそイタリア帰る迫ったノビレ軟禁状態に置かれてしまう。それでもなお氷上残してきた生存者あるいは救助活動関わるさまざまな人々連絡取ろうとすると、ノビレ電信文面厳しく検閲された。ファシスト系のイタリア新聞から、ノビレ臆病風吹かれ避難した誤報流れる。実際に救出活動進展大きく遅れた事で「ノビレだけ脱出」という印象強めてしまい、また旧知間柄である探検家アムンセン捜索志願しながら行不明になるなどの悲劇も、ますますノビレ立場悪くした。 海氷足止めされて48日後、乗組員の残る5名はソビエト砕氷船クラシン Krasin に救出される飛行船気嚢とともに流され乗員6名の捜索続けたい申し出たノビレは、「生存者全員ローマ戻れ」と命じられる最終的に助かった遭難者は9名のみだった。

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遭難事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:42 UTC 版)

東京駅」の記事における「遭難事件」の解説

東京駅は、2人現役内閣総理大臣遭難現場となっている。1人原敬(第19代)で、1921年大正10年11月4日東京駅乗車口現在の丸の内南口)で、大塚駅職員中岡艮一刺殺された。もう1人濱口雄幸(第27代)で、こちらは1930年昭和5年11月14日東京駅第4ホーム現在の9番線10番ホーム)で、愛国社社員佐郷屋留雄銃撃された(原敬違い一命取り留めたが、この銃撃遠因となる形で遭難翌年死亡した)。

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遭難事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 04:06 UTC 版)

ホンダポイント遭難事件」の記事における「遭難事件」の解説

1923年9月8日の夜、第11駆逐隊Destroyer Squadron 11, 略称DESRON 11)の14隻の駆逐艦サンフランシスコ湾からサンディエゴ湾まで、針路を南に取って進んでいた。駆逐隊司令エドワード・H・ワトソン英語版大佐は、先頭艦である駆逐艦デルファイ坐乗しており、駆逐隊構成するのはすべて艦齢5年以内クレムソン級駆逐艦だった。第11駆逐隊21時、東に転針して95度の進路取りサンタバーバラ海峡向かおうとしていたと考えられている。 第11駆逐隊はこのとき、推測航法針路と、スクリュー回転数から計算される速度によって艦位を推定する)で航行していた。当時無線による航法支援システム揺籃期にあり、完全に信頼できるものではなかった。司令駆逐艦であるデルファイ無線航法装置装備していたが、これで得られる艦位は無視された。また、測深行われなかった。測深を行うには減速しなければならなかったからである。駆逐隊戦時想定した訓練行っており、減速はしないことと決めていた。しかし、このとき推測航法得ていた艦位には誤差があり、それが致命的な結果招いた。 同じ日の早い時刻郵便船キューバ近く座礁していた。サンタバーバラ海峡連続して起きた座礁事故について、前の週(9月1日)に起きた関東大震災によって海流変わったせいではないか考える者もいる。

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