遭難
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遭難(そうなん)とは、生命に関わるような災難(危険)に遭うことである。特に山や海等において、生命を失うような危険に遭遇することを言う[1]。
注釈
出典
- ^ 「遭難」- デジタル大辞泉
- ^ Why Are St. Bernards Always Depicted With Barrels Around Their Necks? MATT SONIAK FEBRUARY 18, 2009
- ^ a b c d e 丸山晴弘『遭難のしかた教えます : 安全で確実な登山のための辛口レクチャー』絵: 塩浦信太郎(2011年改版)〈ヤマケイ山学選書〉(原著1999年)。ISBN 978-4-635-04815-6 。
- ^ 春日俊吉『山と雪の墓標 松本深志高校生徒落雷遭難の記録』有峰書店、1970年、P235-238.
- ^ 令和3年における山岳遭難の概況 警察庁生活安全局地域課
- ^ 山岳ヘリ、有料化 条例成立へ 救出時1時間5万円毎日新聞(2017年3月24日)2017年3月24日閲覧
- ^ 「ケルン」は登山に危険 突風で崩壊の恐れも 不要なもの撤去を指示 動植物にも悪影響『朝日新聞』昭和49年(1974年)10月3日夕刊、3版、8面
- ^ メキシコとの交流/千葉県
- ^ 岩尾 pp154-166
- ^ 田中 pp2-7
- ^ 岩尾 pp166-170
- ^ 岩尾 pp171-207
- ^ 岩尾 pp124-153
- ^ 岩尾 pp99-122
- ^ 岩尾 p126
- ^ 岩尾 pp49-53
- ^ 岩尾 pp208-240
- ^ 映画『白鯨との闘い』死の海域で孤立、メルヴィル「白鯨」に隠された真実とは - ロン・ハワード監督作品 ファッションプレス
- ^ 岩尾 p253
- ^ 岩尾 pp253-254
- ^ 岩尾 p254
- ^ “John F. Kennedy and PT109(英語)”. John F. Kennedy Presidential Library and Museum. 2016年3月22日閲覧。
- ^ 全員やせこけ髭ボウボウ、救助船第一報『大阪毎日新聞』(昭和12年2月17日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p66 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ レーススタートは1991年12月26日AM12:00
- ^ 佐野三治『たった一人の生還 :「たか号」漂流二十七日間の闘い』〈新潮文庫〉1995年(原著1992年)。ISBN 978-4-10-136711-8。
- ^ 平成4年横審第144・145号 プレジャーボートマリンマリン転覆事件、プレジャーボートたか転覆事件 - 公益財団法人 海難審判・船舶事故調査協会HP
- ^ 諸井清二『九十二日目の天国 : 酒呑童子号の太平洋漂流日誌』産経新聞ニュースサービス、1994年。ISBN 978-4-594-01621-0。
- ^ “10か月間漂流した漁師、救助される - マーシャル諸島”. AFP BB News (archive.today). (2006年8月22日). オリジナルの2012年7月17日時点におけるアーカイブ。
- ^ 小出康太郎『流れる海 : ドキュメント・生還者』佼成出版社、1989年。ISBN 978-4-333-01354-8。
小出康太郎『ダイバー漂流 : 極限の230キロ』〈新潮OH!文庫〉2000年。ISBN 978-4-10-290021-5。※『流れる海』の増訂 - ^ Apollo experience report: Crew provisions and equipment subsystem(NASA)
遭難事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:04 UTC 版)
16名の隊員と共に北極点到達という大きな望みを持って出発したノビレだったが、しかし極点到達後の事故はいち早く世界中に配信され、北半球中の救助隊が動き始める。生存者たちは飛行船の無線機でSOSを発信、さらにアニリンでテントを赤く染めて目印とし、救助を待った。 墜落の一報が伝わるとイタリアを含むソビエト連邦やノルウェー、スウェーデンやフィンランドなどの国々が極域初の空と海の両面から救助活動にとりかかる。個人所有の船をチャーターして 極地研究者や探検家までも参加する。ノビレとの過去の行き違いを抱えたロアルド・アムンセンさえ、フランスの水上機 en:Latham 47 に乗り込み救助本部に向かうが、トロムソとスヴァールバル諸島の間で連絡を絶ち、発見されたのはポンツーンの機体のみでアムンセンとルネ・ギルボー操縦士 en:René Guilbaud ならびに他の搭乗者4名は行方不明である。 6月20日彼らは捜索隊に発見され、国際的な救援活動が開始され、スウェーデン空軍パイロットのエイナー・ルンドボルイ en:Einar Lundborg、立会人としてシベルイ中尉 Schyberg のフォッカー水上機が墜落現場近くに着陸するのは6月24日である。ノビレの胸にあった救助計画では、優先順位は最も重傷の男性 (大柄な整備工セシオニ)、ノビレ自身は4番目、続く5、6番目に航海士 (ヴィグリエーリ) と通信士 (ビアギ) の順と考えていた。ところがルンドボルイは飛行機の空席は1つであり、ノビレが指名した重傷者は体重が非常に重く離陸できる確証がない、ノビレしか乗せないと主張した。これには有名人を優先したという不純なところもあったとされるが、同時にルンドボルイは「救出活動が混乱しているので、あなたが先に帰って指揮を執るべきだ」と、ノビレに対して筋の通った強い進言をしたとも言われている。ノビレは結局、探検隊のマスコット犬ティティーナ (フォックス・テリア犬)とともにスウェーデン・フィンランド合同航空捜索本部のある en:Ryss Island へ救助されたが、これは後にノビレに対する厳しい非難へと繋がった。この後、ルンドボルイは単独で残りの生存者の空輸に向かうが、遭難現場に着陸時に機体を破損し、残る生存者5名とともに海氷上に足止めされたことで、ノビレ一人が脱出したという印象を強めてしまった。 ノビレは合同航空捜索本部から自国イタリアが捜索本部を置く「ミラノディチッタ」に移るが、捜索隊の無能ぶりに落胆したと後に回顧している。他国と協調した国際捜査チームを組み、自分が指揮をとるというノビレの提案は反対にあい、では自分はいっそイタリアに帰ると迫ったノビレは軟禁状態に置かれてしまう。それでもなお氷上に残してきた生存者あるいは救助活動に関わるさまざまな人々に連絡を取ろうとすると、ノビレの電信の文面は厳しく検閲された。ファシスト系のイタリア新聞から、ノビレは臆病風に吹かれて避難したと誤報が流れる。実際に救出活動の進展が大きく遅れた事で「ノビレだけ脱出」という印象を強めてしまい、また旧知の間柄である探検家アムンセンが捜索を志願しながら行方不明になるなどの悲劇も、ますますノビレの立場を悪くした。 海氷に足止めされて48日後、乗組員の残る5名はソビエトの砕氷船クラシン Krasin に救出される。飛行船の気嚢とともに流された乗員6名の捜索を続けたいと申し出たノビレは、「生存者は全員、ローマに戻れ」と命じられる。最終的に助かった遭難者は9名のみだった。
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遭難事件
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東京駅は、2人の現役内閣総理大臣の遭難の現場となっている。1人は原敬(第19代)で、1921年(大正10年)11月4日に東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で、大塚駅職員の中岡艮一に刺殺された。もう1人は濱口雄幸(第27代)で、こちらは1930年(昭和5年)11月14日に東京駅第4ホーム(現在の9番線・10番線ホーム)で、愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃された(原敬と違い一命を取り留めたが、この銃撃が遠因となる形で遭難翌年に死亡した)。
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遭難事件
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「ホンダポイント遭難事件」の記事における「遭難事件」の解説
1923年9月8日の夜、第11駆逐隊(Destroyer Squadron 11, 略称DESRON 11)の14隻の駆逐艦はサンフランシスコ湾からサンディエゴ湾まで、針路を南に取って進んでいた。駆逐隊司令のエドワード・H・ワトソン(英語版)大佐は、先頭艦である駆逐艦デルファイに坐乗しており、駆逐隊を構成するのはすべて艦齢5年以内のクレムソン級駆逐艦だった。第11駆逐隊は21時、東に転針して95度の進路を取り、サンタバーバラ海峡に向かおうとしていたと考えられている。 第11駆逐隊はこのとき、推測航法(針路と、スクリューの回転数から計算される速度によって艦位を推定する)で航行していた。当時、無線による航法支援システムは揺籃期にあり、完全に信頼できるものではなかった。司令駆逐艦であるデルファイは無線航法装置を装備していたが、これで得られる艦位は無視された。また、測深も行われなかった。測深を行うには減速しなければならなかったからである。駆逐隊は戦時を想定した訓練を行っており、減速はしないことと決めていた。しかし、このとき推測航法で得ていた艦位には誤差があり、それが致命的な結果を招いた。 同じ日の早い時刻、郵便船キューバが近くで座礁していた。サンタバーバラ海峡で連続して起きた座礁事故について、前の週(9月1日)に起きた関東大震災によって海流が変わったせいではないかと考える者もいる。
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