救出活動
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「2015年のエベレスト雪崩事故」の記事における「救出活動」の解説
地震翌日の4月26日午前にはヘリコプターが到着し、救出活動を開始した。重傷者22人を付近の集落ペリチェへ搬送したところで悪天候のため救出は一時中断された。ペリチェは登山者にとって重要な立ち寄り地で、ヒマラヤレスキュー協会から派遣された有志の医師らをスタッフとする簡素な病院が設置されている。 報道によればその日の遅くに数人の登山者がキャンプI(ベースキャンプの上にある最初のキャンプ)からヘリコプターで助け出されたが、100人程度の登山者がなおキャンプIとIIで下山路を失っていた。キャンプIに残された登山隊はクンブ氷瀑を通るルートを修復することにした。4月26日にはヘリコプターによってキャンプIに装備が投下され、シェルパや登山ガイドたちがルートの再構築を始めた。これと並行して、ベースキャンプから分遣されたチームも下側からルート工作を行った。しかし、雪崩が再発したことで作業は失敗に終わった。氷瀑の上を渡すために用意されていた梯子の多くが流されてしまい、さらに報道によればクンブ氷瀑にいた3人のシェルパが死亡し、死者は合計24人に達した。これ以上の救出は4月27日にヘリコプターで行われた。ベースキャンプにいた登山者たちは雪崩の翌日に現地の様子をTwitterに投稿した。山中に残された人たちの間では「大きな孤独感」や「大変な不安定さ」が広がり、このエリアにまるで核爆弾が落とされたように感じたという。Facebookにコメントしたある登山家は、上方に取り残された人たちは「捨て鉢になってきている」と述べた。4月27日にはキャンプIとIIからそれぞれ60人と170人が救出された。4月25日の時点で17人の遺体が見つかり、27日にはさらに1人の遺体が発見された。また4月26日にはカトマンズ・メディカル・カレッジ (KMC) 病院に収容されていた重傷者の1人が亡くなった。
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救出活動
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「2012年ブエノスアイレス鉄道惨事」の記事における「救出活動」の解説
事故発生時に地区内にいた救急車の中には、B型インフルエンザの流行に見舞われていた船舶の到着を待っていた車もあったが、事故の犠牲者を近隣の病院に搬送することに使用された。駅ホームでは救急隊員による蘇生などの活動が展開され、軽症の乗客は徒歩で事故現場を離れた。民間ボランティアによれば、車両の強固で複雑な構造が残骸の除去を困難にし、その結果救助活動を難しくしたという。車両端のクラッシャブルゾーンが大破し、また当核の電車"Toshiba"の窓には金属製の枠が設置されており、これが事故の衝撃で外れかけ外からの救助を難しくし、車内では化粧板が粉砕し網棚が外れる等の大きな被害が出た。それに加え、衝撃で沢山の乗客が押し出され、床と天井、およびそこに設置されていたファンデリアに丁度挟まれる形になっていた。電車の運転士は生き残り、救出されて救急車で搬送された。多くの人々が運転士の救出に携わったが、運転士は重症ではなく、飲酒運転の疑いがあるかどうかの確認のために行われた血中アルコール含有量のテストも陰性であった。この事故により安全確認と車両の手配の関係から、サルミエント線は事故後数時間は通常の運転を行なうことが出来ず、運転再開を求め、さらにTBAの運営に文句のある複数の利用者は、事故現場を保全する連邦警察や兵士に瓶、棒きれ、椅子などを投げつけたが、警察はそれらの抗議者をすぐに排除し、秩序を取り戻した。なお、サルミエント線ではTBAの不十分な運営に対した利用者や左翼組織による同様の暴力的な抗議がこの事故以前にも度々行われていた。 この事故では最終的に3人の子どもを含む51人の死亡が確認され、700人以上が負傷した。救助が終わり、現場検証が済むと、被害の少ない車両から順次車両の引き上げが行われた。その後、激突の場面と音声による記録が事故原因を判定するために調査された。
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救出活動
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「ロス・アルファケス大惨事」の記事における「救出活動」の解説
プロピレンの爆発と1,000℃の火の玉に加え、駐車してあった自動車やキャンプ客が使っていたガスボンベなども次々と炎上・誘爆し、タンクローリーの運転手ビジェーナや観光客ら157名が即死したと推定されている。 爆発の発生から45分のうちに、負傷者たちはほかの生存者たちの助けを受け、車やバンによって運び出された。さらに通報を受けた消防、救急隊などが続々と到着。事故の凄まじさが明らかになるとグアルディア・シビル(治安警察)や軍にも協力が要請され、様々な組織が共同で生存者の救出と火災の鎮火にあたった。最後の負傷者が病院に運ばれたのは事故から3時間後であった。 猛火に包まれたタンクローリーの残骸は国道を完全に閉鎖してしまい、負傷者たちは搬送方向によって南と北に分かれることになった。北のアンポスタやトゥルトーザに運ばれた負傷者は適切な治療を受け、重体の58人は最終的にバルセロナのフランシスコ・フランコ病院に搬送された。一方、南に運ばれた82名の重症患者は、バレンシアのラ・フェ病院に運ばれたが、ショック症状をおこし、病院に到着した時には血圧0の者もいた。多くは体表面積90%以上に重度の熱傷を受けており、数日後に死亡した。死亡率が高くなった理由は、搬送途中に適切な治療が受けられなかったためである。 事故から1週間後にはフランス、ベルギー、オランダ、西ドイツなどの外国人の被害者が、容態の落ち着いたものから帰国を始めた。負傷者300名の中には重傷者もいた。死亡者の公的な数字は215であったが、遺体で発見されたのが217名、病院に搬送されたがその後死亡したものも含めると少なくとも死亡者は270名にも達した。スペイン人の死者は4名であり、それ以外の大多数の被害者が外国人であった。 多くの遺体は性別や身元が判別できないほど損傷が激しく、身に付けていたのは水着と推定される焼け焦げた切れ端のみであり、パスポートなど身元についての手がかりはことごとく焼きつくされていた。当時はDNA型鑑定も未だ実用化されていなかったが、この悪条件下にも拘らず各国から送られた法医学チームの尽力により全遺体の身元の同定に成功し、そのほとんどが母国に返還された。しかし7名は相当時間後まで同定できず、トゥルトーザの墓地に葬られた。またあるフランス人夫婦とその子供2人の遺体は数年後、補償内容が確定した後に母国に戻された。他にもコロンビア出身の3人家族の遺体は返還されず、スペイン人の被害者と共にトゥルトーザの墓地に葬られた。
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