救出後の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 17:46 UTC 版)
「ジーニー (隔離児)」の記事における「救出後の生活」の解説
ジーニーは救出後、ロサンゼルスの子供病院に収容され、そこでしばらく過ごした。当初は身長137cm、体重26.7kg。これまでの人生の大半を椅子に拘束されて過ごしてきたために筋力が無く、歩いたり走ったりすることはおろか立つこともできなかった。また、固形物を咀嚼できず、排泄の習慣も無かった。言葉を話すことはできず、ごくわずかな簡単な単語や命令文を理解できるのみだった。 歩けるようになってもその方法はぎこちなく、「うさぎ歩き」(bunny walk)と呼ばれる奇妙な歩行になってしまった。つばを吐き続ける癖やところかまわず自慰を繰り返す癖もなかなか直らず周囲の人たちを困らせた。 ジーニーの住処はその後めまぐるしくかわっていった。ジーニーは、ジーン・バトラーという養護学級の女性教師と仲良くなり、1971年7月7日からしばらくの間、一時的に彼女の家で生活したこともあった。バトラーは正式にジーニーに里親となる申請を行ったが却下された。その後、心理学者のデービッド・リグラーとその妻マリリンが里親になることが決定し、1971年8月13日にジーニーはリグラーの家へ引っ越した。マリリンの指導によってジーニーは食事の作法などを少しずつ身につけていった。1974年には国立精神衛生研究所(英語版)が研究費の打ち切りを決定する。翌1975年6月、リグラーは里親をやめることを決意し、ジーニーは母親のアイリーンに引き取られる(アイリーンは1971年夏に手術を受けて視力を取り戻していた)。ジーニーは母親になついてはいたものの、母は彼女の乱暴なふるまいに耐えられず、11月7日には新しい里親に引き取られることになった。その家では今までになく厳しく躾がなされ、ジーニーは母親に会うことを許されなかった。ジーニーはストレスから退行しはじめ、身につけていたはずの生活習慣も捨て、言葉もあまりしゃべらなくなった。この状態に危機感を持ったカーティス(言語学者、後述)がリグラーらをけしかけて、1977年4月、ジーニーを病院に入れさせる。2週間後、ジーニーはまた新しい里親に引き取られるがそこでの生活も長くは続かず、クリスマスの頃には2度続けて引越してさらに新しい里親に引き取られる。その後、1978年3月20日には母親アイリーンが娘の監督権を取り戻し、ジーニーは知的障害者のセンターで暮らすことになった。 2008年現在、ジーニーはカリフォルニア南部の施設で暮らしている。アイリーンは2003年に死去した。
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