救出作業とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/30 03:54 UTC 版)
「ギフホルン鉄道事故」の記事における「救出作業とその後」の解説
臨時列車の最後尾車両は貨物列車の機関車に文字通り押し潰され、その前の車両3両も完全に破壊された。事故の衝撃で臨時列車の前方に乗っていた捕虜たちも負傷を免れなかった。しかし捕虜たちはすぐに瓦礫の下から仲間を救出し始めた。捕虜の中には軍医が3人いたが、医療器具がなかったのでできることは少なかった。10分もしないうちに周辺からドイツ赤十字社、軍、消防署やヒトラーユーゲントなどの救援も加わった。遺体は最初は駅の倉庫に収容されたが、その後主にバート・ファリングボステル(ドイツ語版)の墓地に埋葬された。この事故で71人の捕虜の遺体は身元が確認されたが、20人以上はわからなかった。負傷者はブラウンシュヴァイクの病院に搬送されたが、ここでも最終的に26人の捕虜が死亡した。さらに貨物列車の機関士とドイツ軍の護送兵4人が死亡した。 死傷者200人を超える大事故であったが、戦時中の検閲により当時は公表されず、治療の必要がないとされた生存者は新しく編成された列車に乗せられて直ちに移送された。
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