遭難に至る経緯とは? わかりやすく解説

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遭難に至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 16:24 UTC 版)

1996年のエベレスト大量遭難」の記事における「遭難に至る経緯」の解説

1996年ニュージーランドのアドベンチャー・コンサルタンツ社は、1人65,000ドルエベレスト営業公募隊募集した探検家ロブ・ホール引率して世界中アマチュア登山家と共に5月10日登頂を果たすというツアーで、いわゆる商業登山隊(ガイド3名・顧客9名)であった日本人難波康子参加した。他にもスコット・フィッシャー (Scott Fischer ) が引率するマウンテン・マッドネス社公募隊行動共にすることになった参加者中には、本来登山には必要な大量資材持ち込んだり、不適切性交渉を行う参加者がおり、ガイドシェルパ負担小さくなかった。荷揚げ時点でマウンテン・マッドネス社の主力シェルパ、ナワン・トプチェが高所肺水腫によって重体となり、この処理にシェルパ頭のロブサンが当たったため負担はさらに増加したスコット・フィッシャーの隊には、サブガイドとしてロシア人のアナトリ・ブクレーエフ (Anatoli Boukreev) が初参加した。ブクレーエフはガイドとして十分な仕事をせず、隊長スコット・フィッシャー自ら体調不良者をベースキャンプ送り返す等の労働従事することになり、登頂前すでにスコット・フィッシャー疲労困憊となっていた。また、顧客一人レーネ・ギャメルガードが数度にわたり無酸素登頂要請したが、これを撥ねつけたため険悪な空気醸成されていた。 技術体力ともに稚拙なメンバー牽引人手割かれたことで予定していた山頂までのルート工作完成しておらず、山頂向かった人間予定外の待機作業によって酸素体力とも大幅に消耗していた。また、渋滞避けるために登頂日を分け事前取り決め非協力的態度取った南アフリカ隊や、一旦合意しておきながら翻意する台湾隊もおり混乱始まっていた。 難波登山技術英会話能力幾分問題あったようだが、5月10日にサウスコルルートからアタックし登頂成功した。これによって同じルート登頂成功した田部井淳子続き難波日本人女性2人目のエベレスト登頂者、及び七大陸最高峰登頂者となった。しかし、登頂果たした時間は、引き返す約束14時1時間過ぎた15時であった。引き返す約束14時過ぎてロブ・ホールとともに16時30分に登頂したメンバーも2名いたが、2名とも遭難死している。頂上近くルート限られ、他の台湾公募隊なども加わり絶壁越えるような難所では渋滞発生し時間浪費した隊長スコット・フィッシャー自己責任強調し14時というリミットには寛容であった一方ロブ・ホール頂上前に見えていても14時になったら引き返すように参加者強く指導していた。

※この「遭難に至る経緯」の解説は、「1996年のエベレスト大量遭難」の解説の一部です。
「遭難に至る経緯」を含む「1996年のエベレスト大量遭難」の記事については、「1996年のエベレスト大量遭難」の概要を参照ください。

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