遭難事故の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 16:06 UTC 版)
福島の遭難後、強いブリザードの際には、基地の主要な建物からの外出禁止が徹底されるようになった。 第4次越冬隊の関係者からは、福島に登山経験がなかったことが、その死の要因となったのではないか、とする指摘がなされている。木崎甲子郎は、「わたしたちや吉田・村石が生きて帰ってきたのは、「しまった、間違った」と思ったあと、穴を掘ってもぐりブリザードがやむのを待つことができたからだ。また、学生時代、山岳部の生活でそういう訓練を受けていたからでもある。福島にはそういう経験はまったくなく、おそらく、風に押されるままに流されて、絶望して凍えてしまったのであろう」と記している。もっとも、木崎は「もう一日ブリザードが続いていたら、われわれだってどうなっていたかわからない」とも述べ、自分たちの生還も多分に幸運だったことを認めている。村石幸彦も同様に、「生還できた我々と福島隊員の差はなんだったのだろうか。今にして思えば幸運が九十九パーセント、残りは経験の有無だと思う」と述べている。親友の北村泰一も、「彼には山の経験がなく、私にはあった。これが私と福島の生死の分かれの原因だったように思う」と記している。 また、鳥居鉄也は「身勝手な繰り言かもしれないが、もしベルギー隊があのブリザードのときいなかったらと思うこともある」と記しており、北村泰一や、理化学研究所の同僚で第1・2・6次隊に参加した小玉正弘も、同時並行して起こったベルギー隊の遭難騒ぎのため初動が遅れ、結果的に救助のチャンスを逃してしまった可能性を示唆している。一方、木崎甲子郎は、「あの風速三〇メートルものブリザードのなかを出て行くというのは、どだい無茶な話で、捜索などできるはずもない」と記し、遭難の判明直後はとても捜索活動を行える状況ではなかったとしている。 福島紳は、2018年現在、南極地域観測隊の活動中における唯一の死者となっている。ただし、海上自衛隊による支援活動では、1974年(昭和49年)1月1日、「ふじ」の乗組員が氷山を調査中にクレバスに転落して死亡する事故が起こっている。また、2015年(平成27年)2月3日には、南極大陸上のS16無人観測拠点において、「しらせ」の乗組員が、物資輸送作業中に倒れ急死している。
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