治世初期の内政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:41 UTC 版)
「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「治世初期の内政」の解説
ニコライ2世の即位にあたってトヴェリのゼムストヴォ(ロシアの地方議会)は皇位継承を祝いつつ、「民の声と彼らの願いの表明に耳を傾ける」ことを嘆願した。これに対してニコライ2世は「ゼムストヴォの会合では、ゼムストヴォ代表が国事に参加するなどという途方もない夢を表明していると知った。皆さんには知ってほしいが、私は全力を挙げて国民の利益に尽くし、忘れがたき我が父がそうしてきたように専制君主制の原則を守るであろう」という演説をもって返答した。ニコライ2世はロマノフ家の後継者として先祖が受け継いできた専制君主体制を子孫に受け渡すことが自分の義務であるという信念を固く持っていた。またロシアの民草も専制体制を愛しており、これを転覆させるような主張は一部の狂信者が言ってるだけで全国民の意志を代弁するものではないことも確信していた。こうした思想は聖務会院院長コンスタンチン・ポベドノスツェフの影響で培われたものだった。 1896年ユリウス暦5月14日、モスクワのクレムリンに所在するウスペンスキー大聖堂で皇后とともに戴冠式を行なった。戴冠式に日本からは明治天皇の名代として伏見宮貞愛親王(陸軍少将)、特命全権大使として山縣有朋が出席している。 戴冠式の数日後、モスクワ郊外のホディンカ(Ходынка)の平原に設けられた即位記念の記念祝賀会場(飲み物とパン、それに記念品が配布されると告知された)に来訪した50万に達する大群衆の中で順番待ちの混乱から将棋倒し事故が発生し、多数が圧死・負傷するという事件が起こった(ホディンカの惨事(英語版))。この事故は約1,400名の死者と1,300名を越す重傷者(その大半は重度障害者となった)を出したが、新皇帝と皇后は何ごともなかったかのように祝賀行事に出席するなど、事件への反応は国民からは「冷淡」「無関心」とも取れるもので、ロシア国民、特に貧困層の反感を買うこととなった。 初めは父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任しており、1903年まで現職としてロシア経済の近代化に務めた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きかった。
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