治世末の権威の低下と善良議会
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「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「治世末の権威の低下と善良議会」の解説
1360年代は国内においてエドワード3世に対する圧力はほとんど存在しないに等しかったが、エドワードの治世最後の10年間の1367年から1377年にかけては羊毛取引が衰退し、それに伴いエドワードの権威が低下した。1369年からフランスとの戦争が再開したが、前述のとおりイングランド軍の苦戦が続き、1370年代には重税が定期的に課せられた。1371年から1381年にかけて徴税された額は40万ポンドに及ぶが、これは中世後期において最も重い課税額に限りなく近い物である。そのため国民の厭戦気分も高まった。 またエドワードは1369年にフィリッパ王妃が崩御した後には肉体的・精神的衰えが目立つようになり、愛妾アリス・ペラーズ(英語版)を溺愛し、彼女の求める物は何でも与えたばかりか、政治に介入することも許した。政治も戦争も他人任せになり始め、四男のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが権勢を振るうようになった。1375年にはフランスとの間に2年の休戦協定が締結されたが、休戦明けにはカスティーリャの参戦と情勢の一層の悪化が予想されていたため、政府は勝利の見通しをもって議会に臨むことができなかった。 こうした状況のため、治世末の議会は政府に敵対姿勢を取ることが多くなった。1371年の議会ではエドワード3世の宰相たる大法官ウィンチェスター司教ウィカムのウィリアムに対して貴族たちが強く反発し、彼の解任が課税承認の条件にされたため、エドワード3世はやむなく彼を大法官から解任している。 特に反抗が激しかったのが1376年4月に召集された議会、いわゆる善良議会である。善良議会は中世期の議会の中でも最も高名な議会の一つであるが、それは州・都市代表の平民の議員(庶民院議員)がかつてないほど活発に王権に対抗したためである。平民議員の反抗の根底には3種の不満があったと見られる。第一に戦局悪化状態での休戦に対する不満、第二に宮廷の腐敗への怒り、第三に商業上の不満である。第三については輸出羊毛指定市場商人組合に属するイングランド商人とアウトサイダーたち(特にイタリア商人)の対立が背景にあった。15世紀以降にはこうした組合は政府の人為的な市場制限によって市場独占の機会を獲得し、組合はその利益の中から政府に財政的便宜を図るという共生関係ができあがるが、組合が発足してまだ十年前後のこの時期にはこの関係が安定的にできておらず、むしろイタリア商人と宮廷が結託していたからである。 善良議会は中世議会としては異例の長期にわたり、7月までの2カ月半にわたって続いた。その間、善良議会で取り決められたことは、3年にわたる関税徴収を承認、アリス・ペラーズの宮廷からの追放、諸侯の助言により選ばれた9名の聖俗諸侯から成る評議会に国王補佐権を付与すること、第4代ラティマー男爵(英語版)ウィリアム・ラティマー(英語版)や第3代ネヴィル男爵(英語版)ジョン・ネヴィル(英語版)ら国王側近の弾劾(前者は逮捕、後者は解任)などである。特に議会における政府高官弾劾という新たな刑事裁判手続き(庶民院が国王政府の大臣や役人を告発し、貴族院が裁判所を構成して判決を下す)がこの議会で初めて導入されたことは特筆される。これが前例となって17世紀から18世紀にかけての議会政治確立期に政府高官の弾劾が多用されることになる。 善良議会で平民議員たちが勝利を収めることができたのは彼らが団結して王権に抵抗したからである。また平民議員たちはピーター・ド・ラ・メアー(英語版)を代表者に立てて行動したが、メアーは第3代マーチ伯エドマンド・モーティマーの執事であるため、マーチ伯やその同僚たちの保護を受けられたことも大きかった。メアーは後世に最初の庶民院議長(英語版)と見なされる人物となった。 善良議会後、国王を監視する評議会が発足したものの、わずか3カ月しか続かず、エドワードの反転攻勢を許した。1377年1月に召集された議会は、善良議会で弾劾された者たちに恩赦を与えたうえ、庶民院議長メアーを一定期間収監した。さらにエドワードの資金確保のために最初の人頭税の導入にまで同意した。この議会はエドワードによる反動を許した議会として不良議会(英語版)と呼ばれている。
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