治世後半
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その一方で清朝退廃の芽生えもあった。乾隆帝は奸臣のヘシェン(和珅)を重用し続けた。ヘシェンは皇十五子永琰と他の臣たち全てに憎まれていた。文字の獄と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、禁書も厳しく実施した。 1738年(乾隆3年)10月に正室との皇二子永璉(えいれん)を9歳で亡くした。その2カ月後の12月、ジュゼッペ・カスティリオーネという画家に「歳朝図」の作成を命じ、皇帝と皇子たちの団欒のさまを活写させたという。その出来上がった「歳朝図」には永璉の姿も描かれていたという。この際皇二子永璉を亡くしているが、元々乾隆帝には17人の皇子がいた(下の「后妃」の欄を参照)。しかし乾隆帝が85歳にて退位しようとした時には49歳の皇八子永璇(えいせん)・43歳の皇十一子永瑆(えいせい)・35歳の皇十五子永琰(えいえん)・29歳の皇十七子永璘(えいりん)の4人しかのこっていなかったという。 1795年、治世60年に達した乾隆帝は祖父の康熙帝の治世61年を超えてはならないという名目で皇十五子永琰(嘉慶帝)に譲位し太上皇帝(ten i dergi hūwangdi)となったが、その実権は手放さず、清寧宮で院政を敷く一方でヘシェンに政治権限を委ねた。いかに嘉慶帝といえども、乾隆上皇が生きている間はヘシェンの跳梁をどうにも出来ず、宮廷内外の綱紀は弛緩した。晩年の乾隆上皇は認知症を疑われる行動をし、王朝に老害を撒き散らした。 1799年に崩御。陵墓は清東陵内の裕陵。ヘシェンは乾隆上皇の崩御後ただちに死を賜っているが、没収された私財は国家歳入の十数年分に達したという(当時の世界のGDPの3割が清である)。中華民国期の1928年に国民党の軍閥孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き(東陵事件)、乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。これは最後の皇帝だった溥儀にとっては1924年に紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近、のちの満州国建国および彼の満州国皇帝への再即位への布石にもなった。
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治世後半
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寛永の遺老と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。このため、彼らに代わって寛文6年(1666年)には酒井忠清が大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導の下、老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。治世後半には家光期に起こった寛永の大飢饉の反省から飢饉対策として農政に重点が置かれ、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令や諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、河村瑞賢に命じて東廻海運・西廻海運を開拓させるなど全国的な流通・経済政策が展開され、『本朝通鑑』編纂などの文化事業も行われた。また、家綱期には幕府職制の整備が完成され、幕朝関係も安定し、対外的には蝦夷地でのシャクシャイン蜂起や、イングランド船リターン号による通商再開要求、鄭氏政権による援兵要請などが起こっているが、家光期以来の鎖国政策が堅持された。この時期には伊達騒動や越後騒動など大名家のお家騒動も発生している。 側室のお振、お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。加えて家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40。死因は未詳だが、急性の病気(心臓発作など)と言われている。家綱の死により、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れた。 家綱の危篤に際して、酒井忠清は鎌倉時代に将軍源実朝の死後に宮将軍を迎えた例にならい、越前松平家と縁のある有栖川宮家から幸仁親王を将軍に迎えようとしたが、正俊の反対にあって実現しなかったとする宮将軍擁立説があるが、近年では酒井忠清が宮将軍擁立に動いたことを否定する説もある。
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治世後半
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「エドワード4世 (イングランド王)」の記事における「治世後半」の解説
エドワード4世の地位は王太子エドワード(後のエドワード5世)の誕生によって強化され(亡命中の1470年11月4日に王太子が生まれた)、敵対者たちの領地を没収することによって王室財政も潤った。クラレンス公はエドワード4世に帰順したが、末弟のグロスター公との不和が生じていた。クラレンス公はウォリック伯の長女イザベルと結婚していたが、グロスター公も次女アンと結婚してネヴィル家の遺領相続を主張していた。彼らの不和に加えて、クラレンス公は陰謀への関与を続けており、エドワード4世を悩ませていたが、結局、この問題は1478年にクラレンス公が処刑されたことで決着を見ることになった。 エドワード4世治世後半の軍事的冒険は1475年の短期間の対仏戦争であり、この結果、エドワード4世はピキニー条約(英語版)を締結した。外交的にはこの条約は不名誉なものであり、同盟者ブルゴーニュ公との当初の計画ともかけ離れたものであった。しかしながら、この条約はイングランドが国力を充実させるに必要なものを供することとなった。条約によって定められたルイ11世からエドワード4世に支払われる2万フランの年金は本国政府の財政を賄わせ、課税のために議会を開く厄介を避けることができた。 ハンザ同盟とは1469年から戦争をしていたが、ユトレヒト条約(1474)との条約を通じて、彼は船舶の安全を確立し、海賊行為の大幅な減少につなげた。 晩年のエドワード4世は自堕落になり、醜聞にまみれたが、ロンドン市民は彼の不品行には慣れていた。宮廷の権力は、不人気にもかかわらず、ウッドヴィル家が掌握しており、北部を統治する困難な仕事はグロスター公に委ねられた。1482年、ルイ11世はピキニー条約に背反してフランス王太子シャルルとイングランド王女エリザベスとの婚約を破棄し、年金の支払いも停止した。エドワード4世は再征の準備を進めるがその最中に病に倒れた。 エドワード4世は身体強健で40代に入ったばかりであったが、おそらくは荒淫と不摂生により、1483年4月9日にウェストミンスターで急死し、ウィンザー城内の聖ジョージ礼拝堂に埋葬された。 身体強健ということに関しては、ウォリック伯を討って復位して以降、嘔吐剤を過剰摂取し過食嘔吐をするようになっていっていき、ドミニク・マンチーニによると、その過食嘔吐のせいで、風邪をひきやすくなったりと体が虚弱になっていったようである。 テューダー朝の劇作家トマス・ヘイウッドでは、荒淫と不摂生で死んだことになっている。ルイ11世に仕えたフィリップ・ド・コミーヌのMémoiresによると、復位して以降、女性関係や狩り、宴会などに、より度を越して快楽に更けるようになったことに言及している。彼は死因として、長女エリザベスの婚約破棄と不摂生による脳卒中で死んだとしている。ポリドール・ヴァージルは毒殺説にも触れている。他にも温帯性マラリアなど挙げられるが、おそらくは肺炎で亡くなった説が濃厚である。 ヨーク朝系図 (プランタジネット朝)エドワード3世 ジョン・オブ・ゴーント ライオネル・オブ・アントワープ エドマンド・オブ・ラングリー (ランカスター朝) リチャード・プランタジネット エドワード4世 リチャード3世 (テューダー朝)ヘンリー7世 エリザベス エドワード5世 (テューダー朝) 王位は僅か12歳の長男のエドワード5世に継承されたが、3か月もたたない6月26日に叔父グロスター公によって廃位され、代わって彼がリチャード3世として即位することになった。 エリザベス・ウッドヴィルとの間には長男のエドワード5世とヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーの2人の男子がいたが、リチャード3世によって兄弟はロンドン塔に幽閉され、おそらくは殺害されている。5人の女子のうち、長女エリザベスはリチャード3世を打倒してテューダー朝を開いたヘンリー7世と結婚した。
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治世後半
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しかし、全盛は退廃への第一歩でもある。華々しい外征の成果と強大な権力は、彼に過大な自信と、絶対的な権威が脅かされる不安の両方をもたらしたと思われる。次第に武帝に直言して諌めるものは遠ざけられ、華美な言葉で帝を礼賛する臣が武帝をとりまくようになる。外征中に『史記』の著者である司馬遷が、知人であった李陵を弁護したことで死刑を命じられ、減刑の結果宮刑を受けた事件や、李陵の妻子を皆殺しにした事件は、後日李陵の無実も判明していることから、武帝の短気で独断的な性格を物語る逸話として有名である(司馬遷の項参照)。 財政面でも、外征や自身の不老長寿願望等から来る奢侈により財政の悪化を齎(もたら)し、前帝までの蓄積により国庫に溢れていたはずの貨幣や物資は空っぽになっていたという。その解決のため塩鉄の専売や、増税、貨幣改鋳も行なった。これらの負担により流民化する民衆が増え、各地に反乱を誘発させた。 そして同じく後半期には各地で反徒や盗賊の横行が凄まじく、これに頭を抱えた武帝は後に酷吏と呼ばれた法律至上の官僚を要職に就ける。父帝の代からの寧成・義縦・張湯・王温舒・杜周といった者たちが重用され、各地で取り締まりに当たった。この政策は悪い方面に作用した部分も多い。酷吏の重用による厳罰主義は、とにかく多くの罪人を捕らえて処刑することが官吏の職務であるという風潮を生み、社会不安の根本原因である民衆の困窮への対策が軽視されたため、反乱や犯罪、農民の流民化は一向に収まらなかった。取り締まりの効果が上がらないことに業を煮やした武帝は、反乱や盗賊が発生した地方の長官を厳しく罰することにしたが、これはかえって、罰をおそれた地方長官たちが、盗賊の横行や反乱を朝廷に報告しないまま放置するという事態を招く。 さらに、王温舒などは自分の職権を乱用し、賄賂を請求したり、無実の人を処刑したり、罪人を要職に就けたりしていた。また、異母兄の趙敬粛王劉彭祖(生母は賈氏で、中山靖王劉勝の同母兄)も酷吏のような仕事を好んでやっていたと『史記』五宗世家に記されている。 極めつきが太子の反乱による混乱である。老いにより感情的に不安定になり、迷信深くなった武帝は、神仙思想に傾倒するとともに誰かに呪われているという強迫観念をつのらせ、江充を信任してその探索を命じる。江充は当時皇太子であった戾太子劉拠に恨みを買っていたため、武帝死後に戾太子に誅殺される事を恐れ、武帝を呪い殺そうとしているという疑惑を戾太子に被せて殺そうとした。進退窮まった劉拠は江充を殺し囚人を武装させて挙兵するが、武帝は丞相の澎侯劉屈氂(武帝の甥で、中山王劉勝の子)に鎮圧させた。劉拠は逃亡したが、後に自殺したとも、殺害されたとも言われる(巫蠱の禍)。 武帝の治世下では誰かを呪い殺そうとしたという罪により処刑された者が多かった。当時の呪いは、巫蠱の術と呼ばれ、人形に呪いたい相手の名前を書き込み、土に埋めるというものだった。この「人形を使う」というところが要所で、証拠の捏造が容易であったため、政敵を陥れたい者や取り締まりの実績を上げたい官吏がこれを悪用することが多く、巫蠱の罪で処刑された者の多くは冤罪だったのではないかと言われる。前出の戾太子の事件のほか、劉屈氂はその嗣子の妻が弐師将軍李広利の娘だったために、李広利の妹が産んだ昌邑王劉髆を太子にすべく巫蠱を行った。それが仇となり、劉屈氂と李広利の一族は誅殺され、外征中だった李広利は匈奴に投降したものの政敵に殺害されたという。 その後、長い間に皇太子の座は空白だったが、晩年に至り末子の劉弗陵(後の昭帝)を皇太子とし、霍光・金日磾・上官桀の三人に後を託し、直後に死去した。
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