治世後半とは? わかりやすく解説

治世後半

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 17:16 UTC 版)

乾隆帝」の記事における「治世後半」の解説

その一方で清朝退廃芽生えもあった。乾隆帝奸臣ヘシェン和珅)を重用し続けたヘシェンは皇十五子永琰と他の臣たち全て憎まれていた。文字の獄呼ばれる思想弾圧多く人々処罰し禁書厳しく実施した1738年乾隆3年10月正室との皇二子永璉(えいれん)を9歳亡くしたその2カ月後の12月ジュゼッペ・カスティリオーネという画家に「歳朝図」の作成命じ皇帝皇子たちの団欒のさまを活写させたという。その出来上がった「歳朝図」には永璉の姿も描かれていたという。この際二子永璉亡くしているが、元々乾隆帝には17人の皇子がいた(下の「后妃」の参照)。しかし乾隆帝85歳にて退位しようとした時には49歳の皇八子永璇えいせん)・43歳の皇十一永瑆えいせい)・35歳の皇十五子永琰(えいえん)・29歳の皇十七永璘えいりん)の4人しかのこっていなかったという。 1795年治世60年達した乾隆帝祖父康熙帝治世61年超えてならないという名目で皇十五子永琰(嘉慶帝)に譲位し太上皇帝ten i dergi hūwangdi)となったが、その実手放さず清寧宮で院政を敷く一方でヘシェン政治権限委ねた。いかに嘉慶帝といえども乾隆上皇生きている間はヘシェン跳梁どうにも出来ず宮廷内外綱紀弛緩した晩年乾隆上皇認知症疑われる行動をし、王朝老害撒き散らした1799年崩御陵墓清東陵内の裕陵。ヘシェン乾隆上皇崩御後ただちに死を賜っているが、没収され私財国家歳入十数年分達したという(当時世界GDPの3割が清である)。中華民国期1928年国民党軍閥孫殿英によって東陵略奪され事件起き東陵事件)、乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室暴かれ徹底的な略奪受けた。これは最後の皇帝だった溥儀にとっては1924年紫禁城退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近、のちの満州国建国および彼の満州国皇帝への再即位へ布石にもなった。

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治世後半

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:16 UTC 版)

徳川家綱」の記事における「治世後半」の解説

寛永の遺老呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢表舞台から隠退するなどした。このため、彼らに代わって寛文6年1666年)には酒井忠清大老就任し、治世後半の寛文延宝期には忠清の主導の下、老中合議制家綱自身の上意により幕政運営された。治世後半には家光期に起こった寛永の大飢饉反省から飢饉対策として農政重点置かれ宗門改徹底全国への宗門人別改帳作成命令諸国巡見使派遣諸国山川掟制定河村瑞賢命じて東廻海運西廻海運開拓させるなど全国的な流通・経済政策展開され、『本朝通鑑編纂など文化事業行われたまた、家綱期に幕府職制整備完成され、幕朝関係も安定し対外的には蝦夷地でのシャクシャイン蜂起や、イングランドリターン号による通商再開要求鄭氏政権による援兵要請などが起こっているが、家光以来鎖国政策堅持された。この時期には伊達騒動越後騒動など大名家お家騒動発生している。 側室のお振、お満流は家綱の子懐妊したが、死産または流産であった加えて家綱自身生まれつき体が弱く病弱で、30半ば至って男子がなかったため将軍継嗣問題憂慮されていたが、延宝8年1680年5月初旬に病に倒れ危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊勧め受けて末弟館林藩松平綱吉養子迎えて将軍後嗣とし、直後5月8日死去した享年40死因未詳だが、急性の病気心臓発作など)と言われている。家綱死により、徳川将軍家直系の子将軍職世襲する形は崩れた家綱危篤に際して酒井忠清鎌倉時代将軍源実朝死後宮将軍迎えた例にならい、越前松平家と縁のある有栖川宮家から幸仁親王将軍迎えようとしたが、正俊の反対にあって実現しなかったとする宮将軍擁立説があるが、近年では酒井忠清宮将軍擁立動いたことを否定する説もある。

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治世後半

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 08:29 UTC 版)

エドワード4世 (イングランド王)」の記事における「治世後半」の解説

エドワード4世地位王太子エドワード(後のエドワード5世)の誕生によって強化され亡命中の1470年11月4日王太子生まれた)、敵対者たち領地没収することによって王室財政潤ったクラレンス公エドワード4世帰順したが、末弟グロスター公との不和生じていた。クラレンス公ウォリック伯長女イザベル結婚していたが、グロスター公次女アン結婚してネヴィル家遺領相続主張していた。彼らの不和加えてクラレンス公陰謀への関与続けており、エドワード4世悩ませていたが、結局、この問題1478年クラレンス公処刑されたことで決着を見ることになったエドワード4世治世後半の軍事的冒険1475年短期間対仏戦争であり、この結果エドワード4世はピキニー条約英語版)を締結した外交的にはこの条約不名誉なものであり、同盟者ブルゴーニュ公との当初の計画ともかけ離れたものであったしかしながら、この条約イングランド国力充実させる必要なもの供することとなった条約によって定められルイ11世からエドワード4世支払われる2万フラン年金本国政府財政を賄わせ、課税のために議会を開く厄介を避けることができた。 ハンザ同盟とは1469年から戦争をしていたが、ユトレヒト条約(1474)との条約通じて、彼は船舶の安全を確立し海賊行為大幅な減少つなげた晩年エドワード4世自堕落になり、醜聞まみれたが、ロンドン市民は彼の不品行に慣れていた。宮廷権力は、不人気にもかかわらず、ウッドヴィル家が掌握しており、北部統治する困難な仕事グロスター公委ねられた。1482年ルイ11世はピキニー条約背反してフランス王太子シャルルイングランド王エリザベスとの婚約破棄し年金支払い停止したエドワード4世は再征の準備進めるがその最中に病に倒れたエドワード4世身体強健40代入ったばかりであったが、おそらくは荒淫不摂生により、1483年4月9日ウェストミンスター急死しウィンザー城内の聖ジョージ礼拝堂埋葬された。 身体強健ということに関しては、ウォリック伯討って復位し以降嘔吐剤過剰摂取過食嘔吐をするようになっていっていき、ドミニク・マンチーニによると、その過食嘔吐のせいで、風邪をひきやすくなったりと体虚弱になっていったようである。 テューダー朝劇作家トマス・ヘイウッドでは、荒淫不摂生死んだことになっているルイ11世仕えたフィリップ・ド・コミーヌのMémoiresによると、復位し以降女性関係や狩り宴会などに、より度を越して快楽更けようになったことに言及している。彼は死因として、長女エリザベス婚約破棄不摂生による脳卒中死んだとしている。ポリドール・ヴァージルは毒殺説にも触れている。他にも温帯性マラリアなど挙げられるが、おそらくは肺炎亡くなった説が濃厚である。 ヨーク朝系図プランタジネット朝エドワード3世 ジョン・オブ・ゴーント ライオネル・オブ・アントワープ エドマンド・オブ・ラングリー (ランカスター朝) リチャード・プランタジネット エドワード4世 リチャード3世テューダー朝ヘンリー7世 エリザベス エドワード5世テューダー朝王位は僅か12歳長男エドワード5世継承されたが、3か月たたない6月26日叔父グロスター公によって廃位され、代わって彼がリチャード3世として即位することになったエリザベス・ウッドヴィルとの間には長男エドワード5世ヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリー2人男子がいたが、リチャード3世によって兄弟ロンドン塔幽閉されおそらくは殺害されている。5人の女子のうち、長女エリザベスリチャード3世打倒してテューダー朝開いたヘンリー7世結婚した

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治世後半

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:54 UTC 版)

武帝 (漢)」の記事における「治世後半」の解説

しかし、全盛退廃への第一歩でもある。華々しい外征成果強大な権力は、彼に過大な自信と、絶対的な権威脅かされる不安の両方もたらした思われる次第武帝直言し諌めるものは遠ざけられ華美な言葉で帝を礼賛する臣が武帝をとりまくようになる外征中に史記』の著者である司馬遷が、知人であった李陵弁護したことで死刑命じられ減刑結果宮刑受けた事件や、李陵妻子皆殺しにした事件は、後日李陵無実判明していることから、武帝短気独断的な性格物語逸話として有名である(司馬遷の項参照)。 財政面でも、外征自身不老長寿願望等から来る奢侈により財政の悪化を齎(もたら)し、前帝までの蓄積により国庫溢れていたはずの貨幣物資空っぽになっていたという。その解決のため塩専売や、増税貨幣改鋳行なった。これらの負担により流民化する民衆増え各地反乱誘発させた。 そして同じく後半期には各地反徒盗賊横行が凄まじく、これに頭を抱えた武帝は後に酷吏呼ばれた法律至上官僚要職就ける父帝の代からの寧成義縦張湯王温舒杜周といった者たちが重用され各地取り締まり当たった。この政策は悪い方面作用した部分も多い。酷吏重用による厳罰主義は、とにかく多く罪人捕らえて処刑することが官吏職務であるという風潮を生み、社会不安根本原因である民衆困窮への対策軽視されたため、反乱犯罪農民流民化は一向に収まらなかった。取り締まり効果上がらないことに業を煮やした武帝は、反乱盗賊発生した地方長官厳しく罰することにしたが、これはかえって、罰をおそれた地方長官たちが、盗賊横行反乱朝廷報告しないまま放置するという事態を招く。 さらに、王温舒などは自分職権乱用し賄賂請求したり、無実の人を処刑したり、罪人要職就けたりしていた。また、異母兄趙敬粛王彭祖生母賈氏で、中山靖王劉勝同母兄)も酷吏のような仕事好んでやっていたと『史記五宗世家記されている。 極めつき太子反乱による混乱である。老いにより感情的に不安定になり、迷信深くなった武帝は、神仙思想傾倒するとともに誰か呪われているという強迫観念つのらせ江充信任してその探索命じる。江充当時皇太子であった戾太子劉拠恨み買っていたため、武帝死後戾太子誅殺される事を恐れ武帝呪い殺そうとしているという疑惑戾太子被せ殺そうとした。進退窮まった劉拠江充殺し囚人武装させて挙兵するが、武帝丞相の澎侯劉屈氂武帝の甥で、中山王劉勝の子)に鎮圧させた。劉拠逃亡したが、後に自殺したとも、殺害されたとも言われる巫蠱の禍)。 武帝治世下では誰か呪い殺そうとしたという罪により処刑された者が多かった当時呪いは、巫蠱の術呼ばれ人形呪いたい相手の名前書き込み、土に埋めるというものだった。この「人形を使う」というところが要所で、証拠捏造が容易であったため、政敵を陥れたい者や取り締まり実績上げたい官吏がこれを悪用することが多く巫蠱の罪で処刑された者の多く冤罪だったのではないかと言われる前出戾太子事件のほか、劉屈氂はその嗣子の妻が弐師将軍李広利の娘だったために、李広利の妹が産んだ昌邑王劉髆太子にすべく巫蠱行った。それが仇となり、劉屈氂李広利一族誅殺され、外征中だった李広利匈奴投降したものの政敵殺害されたという。 その後長い間皇太子の座は空白だったが、晩年至り末子劉弗陵(後の昭帝)を皇太子とし、霍光金日磾上官桀三人に後を託し直後死去した

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