アストゥリアス王国とは? わかりやすく解説

アストゥリアス王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/04 00:05 UTC 版)

アストゥリアス王国
Reinu d'Asturies
718年[1] - 924年

(国旗) (国章)
国の標語: Hoc Signo Tuetur Pius, Hoc Signo Vincitur Inimicus

アストゥリアス王国の位置(814年)
言語 アストゥリアス語ラテン語俗ラテン語
宗教 キリスト教
首都 カンガス・デ・オニスラングレーオプラビア英語版オビエド
国王
718年 - 737年 ペラーヨ
910年 - 924年 フルエーラ2世
変遷
コバドンガの戦い 718年
世襲君主制導入 842年
レオン王国へ発展のため消滅 925年
現在 スペイン
ポルトガル
ペラーヨの像

アストゥリアス王国(アストゥリアスおうこく、アストゥリアス語: Reinu d'Asturiesスペイン語: Reino de Asturiasラテン語: Asturorum Regnum)は、イベリア半島にかつて存在した王国である。

歴史

711年グアダレーテ河畔の戦いでイベリア半島をイスラーム勢力(ウマイヤ朝)が征服し、西ゴート王国が滅亡した。この際、イスラームへの抵抗を続けた西ゴート王国の貴族ペラーヨは、イベリア半島北西部にまで逃れ、在地のアストゥリアス人勢力と結んで、アストゥリアス王国を建国した。イスラーム勢力の攻撃を受けるが、722年コバドンガの戦いで勝利して独立を保つと、カンガス・デ・オニスを都として支配を固めた。

アルフォンソ2世の時代にガリシア地方へと版図を拡大し、聖ヤコブ守護聖人とするサンティアゴ大聖堂を設けた。また、カンガス・デ・オニスに代わりオビエドを支配の拠点とした。この頃より、イスラーム勢力に対する反撃が進められた。

ガルシア1世の時代に、都はオビエドからレオンへと遷された。これ以降の王国はレオン王国と称される。

脚注

  1. ^ Collins, Roger (1989). The Arab Conquest of Spain 710–797. Oxford, UK; Cambridge, Mass.: Blackwell. p. 49. ISBN 0-631-19405-3.

参考文献

関連項目


アストゥリアス王国

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レオン王国」の記事における「アストゥリアス王国」の解説

詳細は「アストゥリアス王国」を参照 711年西ゴート王国滅亡後イベリア半島イスラム教徒によって支配された。イスラム教徒支配下では税を支払代わりに西ゴート式の独自の典礼維持したキリスト教徒たちがおり、モサラベ呼ばれた北部山岳地帯キリスト教国アストゥリアス王国は最も積極的にイスラーム諸国対抗した従来アストゥリアス王国のこのような反抗は、西ゴート後継者自認する王国宗教的政治的目的から遂行しており、それがレコンキスタ精神直接つながるものと考えられることが多かったが、最近はこのような見方修正されつつある。一方で従来説支持者西ゴート貴族アストゥリアスへの移住国王選出方式西ゴートであったというような傍証挙げている。 722年西ゴート王国貴族ペラーヨコバドンガの戦いイスラム軍を破り以後アストゥリアス地方が、レコンキスタ拠点になる。 791年即位したアルフォンソ2世(760年-842年)の治世後半にはアル・アンダルスから移住してきたモサラベ建言を容れて、西ゴート方式宗教儀式部分的に採用し西ゴート王に連なる家系図を作らせ、アストゥリアス西ゴート王国継承者であるという「新ゴート主義」が成立した。新ゴート主義とは、スペインの歴史ラモン・メネンデス・ピダル提唱した、この時期のアストゥリアス王国に見られる西ゴート時代意識的模倣のことである。 アルフォンソ宮廷教会組織アーヘントレドモデル整備された。アルフォンソ終末論思想的背景としつつ、西ゴート王国との連続性主張したが、一方で8世紀以来モサラベ教会主流となっていたキリスト養子説採用しなかった。正確に言えばモサラベ教会教義、つまりトレドのエリパンドゥス (en:Elipando) が唱えた説は「キリストは神に人性において『採択された子』」というもので、養子説ではない。 アルフォンソ3世時代になると、植民活動活発化させ、教会堂建設事業積極的に行うなどキリスト教布教にも力を注いだアルフォンソ3世の「征服」を強調する見方があるが、アルフォンソ3世による発展は全く「平和的」なもので、レコンキスタという言葉想像させる征服的なものではないという見方もある。

※この「アストゥリアス王国」の解説は、「レオン王国」の解説の一部です。
「アストゥリアス王国」を含む「レオン王国」の記事については、「レオン王国」の概要を参照ください。

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