ゴート主義
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「グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)」の記事における「ゴート主義」の解説
グスタフ2世アドルフが三十年戦争に介入した理由として挙げられているのが「古ゴート主義」である。一般的には、ドイツのプロテスタント守護のための侵攻と言われているが、グスタフ2世の理想は、はるかにそれを上回るものであった。 グスタフ2世が着目したのは、前世紀から提唱されたゴート起源説である。スウェーデン・ヴァーサ家は、ゲルマン民族の大移動でヨーロッパを席巻したゴート人の末裔であるという伝承である。ゴート人は、ヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸を支配したという(この称号に冠された部族は、スヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人でいずれも王号を帯びていた)。この伝承は、スウェーデンでは古来より伝えられ、スウェーデンの建国神話と結びついている。グスタフ2世もこの説を信奉し、自らもそれに倣い、ヨーロッパの支配を目論むのである。グスタフ2世自身、戴冠式時にゴート人征服王ベーリクとして振る舞った。最終的には、神聖ローマ帝国の帝冠も視野に入れていたと言われている。これは汎スウェーデン主義とも呼ばれ、ハプスブルク帝国の世界帝国理念に対抗するものであった。なお、この3部族はいずれも「王」で称されており、「皇帝」ではなかった。これは普遍主義を掲げていても、ローマに由来する皇帝位の不可侵性は否定できず、主義自体は政治理念の元にあったと言える。 遡って、1629年まで続いたポーランドとの戦争(スウェーデン・ポーランド戦争)はグスタフ2世の「古ゴート主義」とポーランドの「共同体主義(コモンウェルス、ポーランド語でRzeczpospolita)」との戦いだったともいえる。この戦争自体は両者痛み分けであったものの、汎スウェーデン主義は同じようにハプスブルク家の世界帝国理念に対抗し、ポーランドのコモンウェルスに相対する「絶対主義(アンシャン・レジーム)」を目指したフランス王国との提携を導き出すことに成功した(1624年の対ハプスブルク同盟及び1631年のベールヴァルデ条約)。 なお、ポーランドのヴァーサ家も同様な古ゴート主義を持ち、称号にもそれは表れていた。ポーランド人独自のサルマタイ人起源説(サルマティズム)が主流ではあったが、一部の解釈が重なる部分もあったからである。ゴート主義自体はヴァーサ家からの影響もあるが、その一部にあたるヴァンダル主義は、元々ポーランド人の間で信じられていたサルマティズムの中の一部分であった。しかしゲルマン主義を基本とするスウェーデンとヴァンダル人をスラヴ系と見なすポーランドでは見解が根本的に異なり、ここでも相容れることはなかった。ヴァンダル主義は、シュラフタなど貴族に土着主義として浸透しているが、選挙王政により王家が外国からも迎えられるポーランドにあっては、国家として政治的理念としての普遍主義が継続的に国策として打ち出されることはなかった。 これはナショナリズムを忌避し、コスモポリタニズムを採るポーランドでは為し様のない政策であったが、一方同じカトリックが主であるオーストリア・スペイン両ハプスブルク家は、普遍主義による政治的理念を持っていた。それはカトリック教会(カトリシズム)と神聖ローマ皇帝の不可侵性を元にした世界帝国理念であった。そしてフランスもまた、神聖ローマ帝国に対する帝国政策を行っていた。それはあくまでもカトリックを主軸としたものだったが、ハプスブルク家排除による神聖ローマ皇帝戴冠による世界帝国理念であった。フランス宰相リシュリューは、国王を選帝侯にすべく画策したが、これはスウェーデン宰相オクセンシェルナもまた画策していたことであった(選帝侯であればローマ王候補となり、ローマ王となればローマ皇帝に即位することも可能となる。ローマ皇帝であることは、あらゆるキリスト教徒の王であると言う普遍主義的、帝国主義的理念から来るものであった。それは王権を超越した帝権を獲得することを意味していた)。こうして普遍主義は、神聖ローマ帝国を舞台とした三十年戦争で相争われるのである。 17世紀初頭のポーランドは、ポーランド王国とリトアニア大公国の同君連合を軸に、ウクライナ、ベラルーシや、バルト・ドイツ人の多いリヴォニア、クールラント等を領土に抱く多民族共同体連邦制で、さらにロシアとスウェーデンを併合することによって巨大な連邦国家を成立させることを画策していた。(それより前の時代にはハンガリーとボヘミアをも視野に入れていた)。そして、これら多くの構成民族からなるシュラフタと呼ばれる貴族・士族階級が平等に国家の構成員として参加し、国王自由選挙で選ばれた国王と、シュラフタの参加する議会によって運営される黄金の自由と呼ばれる選挙君主制、貴族共和制であった(政体においては制限選挙制時代のイギリスやアメリカ合衆国に、民族の扱いについては古代ローマのコスモポリタニズムや、現代のベルギー、スイスなどに共通する点がある)。これらの政体は、今日の現代的政体と完全に一致するものではない。当時の貴族共和制は形式的には君主制であり、全ての共和国国民からなる普通選挙はこの時代では存在していなかった。その中での民主政体に近しいのが当時の貴族共和制であるが、それも現代の民主主義とは一線を画している。言葉通りの貴族による民主主義であり、市民や農民等による階級的差異はこの時代では一般的であった。これらの参政権を有したのがアメリカ合衆国国民であるが、完全民主制に至るのはなお、時を経過しなければならなかった(アメリカ合衆国大統領と、当時の共和国元首である国王の執行権は同等とは言えなかった)。当時の一般国民は身分制度によって自由を制限されていたが、スウェーデンでは、農民は例外的に自由であった。スウェーデンでも、本国とバルト地方やドイツ地方との関係は比較的緩やかで、王権にのみ結び付いているに過ぎなかった。バルト帝国も様々な地域、民族を抱える多民族国家であり、帝国主義的理念を持ちながらも、スウェーデンは、環バルト海を巡る地域独自の伝統、法、習慣を併せ持つ複合的な国家であった。そうした近世国家は、「複合性君主国家」または「コングロマリット国家」であったとも言われている。ともあれ、グスタフ2世のエキセントリックな性格によって、独自の強国主義とも相まって古ゴート主義は、スウェーデン普遍主義として国家・民族的概念として理想化されて行くのである。 これは、当時ヨーロッパで萌芽しつつあったロマン主義から発しプロテスタンティズムによって助長されたスウェーデンの古ゴート主義という「民族主義」とは真っ向から対立するものであった。グスタフ2世の絶対王政に不満を抱くスウェーデン軍人がポーランド側につくケースもしばしば見られた。もっとも戦争で決することの多かった17世紀の国際政治においては君主個人の決断ですばやく行動に移せるグスタフ2世の絶対王政が、国会や元老院における審議を要したポーランドの民主主義(厳密には貴族共和政)よりも有利であったことは明らかで、事実ポーランドはグスタフとの戦争においてその民主政体のゆえにしばしば決断に遅れをとって苦戦することになったのである。それはポーランド・ヴァーサ家が推し進めた対抗宗教改革が、ポーランド、共和国の自由を侵害する他なく、そのことによって、国会は王家との確執を強め、本格的に王権を制限してしまうのである。その結果、周辺国がそれぞれ君主制の強化を開始する中で、ポーランドは時代の逆行に至ってしまうこととなるのである。 スウェーデンは君主制を強化し、軍事、外交を国王の一手に集中させることで帝国主義的膨張を行うことができ、一方のポーランドは貴族であれば民族出自や宗教宗派に拘らずに国政に参加できるというリベラルな点で非常に先進的ではあったが、そのために却って衆愚政治に陥り、一致団結して内憂外患にあたることができなかった(ポーランド王ヴワディスワフ4世も王権強化を図ったが阻止されている)。この結果、君主の権力が弱体化して統治力が低下し、絶対君主制を確立した近隣諸国に対して守勢に立たされることとなる。グスタフ2世は優れた演説と、盟友とも言える宰相オクセンシェルナの補佐、そしてプロテスタント教会との結び付きによって王権を強化し、絶対王政の基礎を確立し、絶対君主制への道を切り開いて行くのである。 同じヴァーサ家の王を戴きながらも、王位は同一王朝の世襲による絶対王政・民族主義のスウェーデンと、選挙王政・貴族共和政・多民族連邦主義をとるポーランドとは、その政治思想も大きく異なり相容れなかった。とは言えスウェーデンもこの時代は、絶対君主制を確立させておらず、この後も幼君が続いたこともあり、貴族勢力の介在によって大国の威信が揺らぐこともあった。スウェーデンが王権を確立し絶対君主制を完成させるのは、17世紀後半のこととなる。これはグスタフ2世の時代にあっては、未だ王権が制限されていたことを意味する。スウェーデンは、カール11世の治世下で絶対王政を1682年に確立させるが、王権の絶対性が法的に決議されるのは1693年のことであった。決議するのは国王ではなく、議会であり、王国参事会であり法的に決議されるまでは、この状態が継続して行くこととなる。王権が拡大して行く17世紀にあっても国王は、身分制議会での演説や提議を行わなくては政策を実行することはできなかった。しかし議会そのものは絶対君主制下でも存在していた。スウェーデンの王権理念は法と人民に拘束されるものであり、「立憲主義」的でもあった。また、グスタフ2世の即位憲章では、王権を制限し、王国参事会の影響力を強めている内容であり、先王カール9世の時代に王権が拡大傾向にあったのに対して抑止する内容となっている。これは貴族や軍人に王権に対する警戒や不満があったことを意味し、以後も王権拡大を巡る君主と議会の対立は、完全に立憲君主制となる19世紀初頭まで続けられて行くこととなる。しかし17世紀にあっては、いずれのヨーロッパ諸国も君主制の強化を目指していた時代でもあった。この統治制度は、国家を強化し国内の統制をはかることで独立を維持し、大国時代をもたらしたと言える。この統治制度を1665年(法規定)に確立させたデンマークは小国に転落しながらも独立を維持し、18世紀以降の五大国はイギリスを除いていずれも絶対君主制国家であった。18世紀に大北方戦争に敗れたスウェーデンは、事実上の立憲君主制となり、1790年の絶対君主制復活までは列強諸国の影響力の下に晒され、元より時代的に先駆的な民主主義国家ポーランド=リトアニア共和国は、ポーランド継承戦争を通じて列強諸国の緩衝国となり、最終的には分割され、独立そのものを失うのである。 これらのことは、近世において近代化を目指す諸国家との競合に打ち勝つためのものであった。上からの改革により迅速に円滑に改革を推進し、国家の中央集権化及び制度的刷新を行い、上流階級による国家権力縮小を阻み、国家の貧困化と弱体化から守ることがその目的であった。それはまた、強国との生き残りをかけた壮絶な戦いでもあった。「絶対主義」はそのための手段でもあったと言えるが、その制度は「社団」なしには成立し得なかった。一方、貴族共和制は、内政こそ重視するものの、強国主義を廃し、貴族や支配階層の自由や特権を堅持し、君主制の強化及び軍事的刷新を拒絶し、諸国家の目指す近代化政策から取り残された末、国威と国力の低下に至り国家の解体が進行し、強国の草刈場と化すのである。結果、前者こそが絶対主義の形態を完全に体現し得たフランス王国であり、貴族共和国はまさにそれ故に後者を選択してしまったと言える。これは貴族共和国の主幹をなす「黄金の自由」と「サルマティズム」が時代の推移に符合せず、却って中央権力の弱体化と自衛能力の衰退をもたらして行った要因であったと言える。この両者を折衷し、二つの革命を17世紀に体験したイギリスは、フランスに対抗し得る新たな国家制度を築いて行くのである。貴族共和制は結局の処、近代に至る時期に全て独立を喪失し、消滅する運命を辿るのである(しかしこれは、性善説に基づくもので、絶対主義ですら18世紀後半のアメリカ独立革命、フランス革命を経て、その限界は明らかとなるのであるが、これは後世の話である。しかし、この性善説と言う概念で見れば、貴族共和制も民主主義と言う立場からすれば素晴らしき政体であった。しかし時代の趨勢がそれを許さなかったのである)。 要するに君主制であれ、共和制であれ、いずれかの国家独占が敷かれることによる国家理性が貫かれてこそ近代国家が生まれたと言える。それはドイツ三十年戦争を通じて生まれて来た「国家」と言うシステムであった。公権力と言う歴史的組織形態が「国家」であり、例外を除けば「絶対主義」を採用したことで始まったと言える。その三十年戦争の結果、ヴァーサ家、ブルボン家、ハプスブルク家の新旧普遍主義は、最終的に葬り去られてしまったと言えるが、それ故に「国家の形成」(絶対主義体制)のための戦争であったとも言え、諸国家のナショナリズムの誕生と形成に影響を与えて行くこととなる。それは、グスタフ2世の政策が半ば成功し、半ば破綻したことを意味していた。スウェーデンの強大化に貢献したとも言える普遍主義だったが、結果的に破綻し、特定地域に限定されてしまった一因は、皮肉にもグスタフ2世唯一の娘であり、スウェーデン・ヴァーサ家最後の継承者であるクリスティーナ女王であった。 グスタフ2世の死後、宰相オクセンシェルナがその政策を引き継ぎ、クリスティーナ女王にスウェーデン普遍主義の理想を重ね合わせたが、女王はその理想よりもキリスト教徒の和解と統一の理想を掲げ、古ゴート主義は三十年戦争の終結と共に事実上終焉した。とはいえ、ゴート主義はスウェーデンがバルト海一帯を支配するバルト帝国の維持にその正当性を持たせている。 グスタフ2世は汎スウェーデン主義に則り、「スヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人の王」(Suecorm, Gothorum, et Vandalorum regen)を自称し、さらにフィンランド大公を兼任した。なおこの称号は、クリスティーナにも引き継がれた。
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