ゴート主義とは? わかりやすく解説

ゴート主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 17:01 UTC 版)

グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)」の記事における「ゴート主義」の解説

グスタフ2世アドルフ三十年戦争介入した理由として挙げられているのが「古ゴート主義」である。一般的にはドイツプロテスタント守護のための侵攻と言われているが、グスタフ2世理想は、はるかにそれを上回るものであったグスタフ2世着目したのは、前世紀から提唱されゴート起源説である。スウェーデン・ヴァーサ家は、ゲルマン民族の大移動ヨーロッパ席巻したゴート人末裔であるという伝承である。ゴート人は、ヨーロッパアジアアフリカ三大陸を支配したという(この称号冠され部族は、スヴェーア人、ゴート人ヴァンダル人いずれも王号帯びていた)。この伝承は、スウェーデンでは古来より伝えられスウェーデン建国神話と結びついているグスタフ2世もこの説を信奉し、自らもそれに倣いヨーロッパ支配目論むのであるグスタフ2世自身戴冠式時にゴート人征服王ベーリクとして振る舞った最終的には、神聖ローマ帝国帝冠視野入れていたと言われている。これは汎スウェーデン主義とも呼ばれハプスブルク帝国世界帝国理念対抗するものであった。なお、この3部はいずれ「王」称されており、「皇帝」ではなかった。これは普遍主義掲げていても、ローマ由来する皇帝位不可侵性は否定できず、主義自体政治理念元にあったと言える遡って1629年まで続いたポーランドとの戦争スウェーデン・ポーランド戦争)はグスタフ2世の「古ゴート主義」とポーランドの「共同体主義コモンウェルスポーランド語でRzeczpospolita)」との戦いだったともいえる。この戦争自体両者痛み分けであったものの、汎スウェーデン主義同じようハプスブルク家世界帝国理念対抗しポーランドコモンウェルス相対する絶対主義アンシャン・レジーム)」を目指しフランス王国との提携導き出すことに成功した1624年対ハプスブルク同盟及び1631年ベールヴァルデ条約)。 なお、ポーランドヴァーサ家同様な古ゴート主義を持ち称号にもそれは表れていた。ポーランド人独自のサルマタイ人起源説サルマティズム)が主流ではあったが、一部解釈重な部分あったからである。ゴート主義自体ヴァーサ家からの影響もあるが、その一部にあたるヴァンダル主義は、元々ポーランド人の間で信じられていたサルマティズムの中の一部分であった。しかしゲルマン主義基本とするスウェーデンヴァンダル人スラヴ系見なすポーランドでは見解根本的に異なり、ここでも相容れることはなかった。ヴァンダル主義は、シュラフタなど貴族土着主義として浸透しているが、選挙王政により王家外国からも迎えられるポーランドにあっては国家として政治的理念としての普遍主義継続的に国策として打ち出されことはなかった。 これはナショナリズム忌避しコスモポリタニズムを採るポーランドでは為し様のない政策であったが、一方同じカトリックが主であるオーストリア・スペイン両ハプスブルク家は、普遍主義による政治的理念持っていた。それはカトリック教会カトリシズム)と神聖ローマ皇帝不可侵性を元にした世界帝国理念であった。そしてフランスまた、神聖ローマ帝国対す帝国政策行っていた。それはあくまでもカトリック主軸したものだったが、ハプスブルク家排除による神聖ローマ皇帝戴冠による世界帝国理念であったフランス宰相リシュリューは、国王選帝侯にすべく画策したが、これはスウェーデン宰相オクセンシェルナもまた画策していたことであった選帝侯であればローマ王候補となり、ローマ王となればローマ皇帝即位することも可能となる。ローマ皇帝であることは、あらゆるキリスト教徒の王であると言う普遍主義的、帝国主義的理念から来るものであった。それは王権超越した帝権獲得することを意味していた)。こうして普遍主義は、神聖ローマ帝国舞台とした三十年戦争で相争われるのである17世紀初頭ポーランドは、ポーランド王国リトアニア大公国同君連合を軸に、ウクライナベラルーシや、バルト・ドイツ人の多いリヴォニアクールラント等を領土に抱く多民族共同体連邦制で、さらにロシアスウェーデン併合することによって巨大な連邦国家成立させることを画策していた。(それより前の時代にはハンガリーボヘミアをも視野入れていた)。そして、これら多く構成民族からなるシュラフタ呼ばれる貴族士族階級平等に国家構成員として参加し国王自由選挙選ばれ国王と、シュラフタ参加する議会によって運営される黄金の自由呼ばれる選挙君主制貴族共和制であった政体においては制限選挙時代イギリスアメリカ合衆国に、民族扱いについては古代ローマコスモポリタニズムや、現代ベルギースイスなどに共通する点がある)。これらの政体は、今日現代的政体完全に一致するものではない。当時貴族共和制形式的に君主制であり、全ての共和国国民からなる普通選挙はこの時代では存在していなかった。その中で民主政体に近しいのが当時貴族共和制であるが、それも現代民主主義とは一線を画している。言葉通り貴族による民主主義であり、市民農民等による階級的差異はこの時代では一般的であった。これらの参政権有したのがアメリカ合衆国国民であるが、完全民主制に至るのはなお、時を経過しなければならなかった(アメリカ合衆国大統領と、当時共和国元首である国王執行権同等とは言えなかった)。当時一般国民身分制度によって自由を制限されていたが、スウェーデンでは、農民例外的に自由であったスウェーデンでも、本国バルト地方ドイツ地方との関係は比較的緩やかで、王権にのみ結び付いているに過ぎなかった。バルト帝国様々な地域民族抱え多民族国家であり、帝国主義的理念持ちながらも、スウェーデンは、環バルト海を巡る地域独自の伝統、法、習慣併せ持つ複合的な国家であったそうした近世国家は、「複合君主国家」または「コングロマリット国家であったとも言われている。ともあれグスタフ2世エキセントリックな性格によって、独自の強国主義とも相まって古ゴート主義は、スウェーデン普遍主義として国家民族的概念として理想化されて行くのである。 これは、当時ヨーロッパで萌芽しつつあったロマン主義から発しプロテスタンティズムによって助長されスウェーデンの古ゴート主義という「民族主義」とは真っ向から対立するものであったグスタフ2世絶対王政に不満を抱くスウェーデン軍人がポーランド側につくケースもしばしば見られた。もっとも戦争決することの多かった17世紀国際政治においては君主個人決断すばやく行動移せグスタフ2世絶対王政が、国会元老院における審議要したポーランド民主主義厳密に貴族共和政)よりも有利であったことは明らかで、事実ポーランドグスタフとの戦争においてその民主政体のゆえにしばしば決断に遅れをとって苦戦することになったのである。それはポーランド・ヴァーサ家が推し進めた対抗宗教改革が、ポーランド共和国の自由を侵害する他なく、そのことによって、国会王家との確執強め本格的に王権制限してしまうのであるその結果周辺国それぞれ君主制強化開始する中で、ポーランド時代逆行至ってしまうこととなるのであるスウェーデン君主制強化し軍事外交国王一手集中させることで帝国主義的膨張を行うことができ、一方ポーランド貴族であれば民族出自宗教宗派拘らず国政参加できるというリベラルな点で非常に先進的ではあったが、そのために却って衆愚政治に陥り、一致団結して内憂外患にあたることができなかった(ポーランドヴワディスワフ4世王権強化図った阻止されている)。この結果君主権力弱体化して統治力が低下し絶対君主制確立した近隣諸国に対して守勢に立たされることとなる。グスタフ2世優れた演説と、盟友とも言える宰相オクセンシェルナ補佐、そしてプロテスタント教会との結び付きによって王権強化し絶対王政基礎確立し絶対君主制への道を切り開いて行くのである。 同じヴァーサ家の王を戴きながらも、王位同一王朝世襲による絶対王政民族主義スウェーデンと、選挙王政貴族共和政・多民族連邦主義をとるポーランドとは、その政治思想大きく異なり相容れなかった。とは言えスウェーデンもこの時代は、絶対君主制確立させておらず、この後幼君続いたこともあり、貴族勢力介在によって大国威信揺らぐこともあった。スウェーデン王権確立し絶対君主制完成させるのは、17世紀後半のこととなる。これはグスタフ2世時代にあっては未だ王権制限されていたことを意味するスウェーデンは、カール11世の治世下で絶対王政1682年確立させるが、王権絶対性が法的に決議されるのは1693年のことであった決議するのは国王ではなく議会であり、王国参事会であり法的に決議されるまでは、この状態が継続して行くこととなる。王権拡大して行く17世紀にあって国王は、身分制議会での演説提議を行わなくては政策実行することはできなかった。しかし議会そのもの絶対君主制下でも存在していた。スウェーデン王権理念は法と人民拘束されるものであり、「立憲主義」的でもあった。また、グスタフ2世即位憲章では、王権制限し王国参事会影響力強めている内容であり、先王カール9世時代王権拡大傾向にあったに対して抑止する内容となっている。これは貴族軍人に王権対す警戒や不満があったことを意味し以後王権拡大を巡る君主議会対立は、完全に立憲君主制となる19世紀初頭まで続けられて行くこととなる。しかし17世紀にあってはいずれのヨーロッパ諸国君主制強化目指していた時代でもあった。この統治制度は、国家強化し国内統制をはかることで独立維持し大国時代もたらしたと言える。この統治制度1665年法規定)に確立させたデンマーク小国転落しながらも独立維持し18世紀以降五大国イギリス除いていずれも絶対君主制国家であった18世紀大北方戦争敗れたスウェーデンは、事実上立憲君主制となり、1790年絶対君主制復活までは列強諸国影響力の下に晒され元より時代的先駆的な民主主義国家ポーランド=リトアニア共和国は、ポーランド継承戦争通じて列強諸国緩衝国となり、最終的に分割され独立そのものを失うのである。 これらのことは、近世において近代化目指す諸国家との競合打ち勝つためのものであった上からの改革により迅速に円滑に改革推進し国家中央集権化及び制度的刷新行い上流階級による国家権力縮小阻み国家貧困化と弱体化から守ることがその目的であった。それはまた、強国との生き残りをかけた壮絶な戦いでもあった。「絶対主義」はそのための手段でもあったと言えるが、その制度は「社団」なしには成立し得なかった。一方貴族共和制は、内政こそ重視するものの、強国主義廃し貴族支配階層の自由や特権堅持し、君主制強化及び軍事的刷新拒絶し諸国家の目指す近代化政策から取り残された末、国威国力低下至り国家解体進行し強国草刈場化すのである結果前者こそが絶対主義形態を完全に体現し得たフランス王国であり、貴族共和国はまさにそれ故後者選択してしまったと言える。これは貴族共和国主幹をなす「黄金の自由」と「サルマティズム」が時代推移符合せず、却って中央権力弱体化自衛能力衰退もたらして行った要因であったと言える。この両者折衷し二つの革命17世紀体験したイギリスは、フランス対抗し得る新たな国家制度築いて行くのである貴族共和制結局の処、近代に至る時期全て独立喪失し消滅する運命を辿るのである(しかしこれは、性善説に基づくもので、絶対主義ですら18世紀後半アメリカ独立革命フランス革命経てその限界は明らかとなるのであるが、これは後世の話である。しかし、この性善説と言う概念見れば貴族共和制民主主義と言う立場からすれば素晴らしき政体であった。しかし時代趨勢がそれを許さなかったのである)。 要する君主制であれ、共和制であれ、いずれか国家独占敷かれることによる国家理性貫かれてこそ近代国家生まれたと言える。それはドイツ三十年戦争通じて生まれて来た「国家」と言うシステムであった公権力と言う歴史的組織形態「国家」であり、例外除けば絶対主義」を採用したことで始まったと言えるその三十年戦争結果ヴァーサ家ブルボン家ハプスブルク家新旧普遍主義は、最終的に葬り去られてしまったと言えるが、それ故に「国家形成」(絶対主義体制)のための戦争であったとも言え諸国家のナショナリズム誕生形成影響与えて行くこととなる。それは、グスタフ2世政策半ば成功し半ば破綻したことを意味していた。スウェーデン強大化に貢献したとも言える普遍主義だったが、結果的に破綻し特定地域限定されてしまった一因は、皮肉にもグスタフ2世唯一の娘であり、スウェーデン・ヴァーサ家最後継承者であるクリスティーナ女王であったグスタフ2世の死後宰相オクセンシェルナがその政策引き継ぎクリスティーナ女王スウェーデン普遍主義理想重ね合わせたが、女王はその理想よりもキリスト教徒和解統一理想掲げ、古ゴート主義は三十年戦争の終結と共に事実上終焉した。とはいえ、ゴート主義はスウェーデンバルト海一帯支配するバルト帝国維持にその正当性持たせている。 グスタフ2世は汎スウェーデン主義則り、「スヴェーア人、ゴート人ヴァンダル人の王」(Suecorm, Gothorum, et Vandalorum regen)を自称し、さらにフィンランド大公兼任した。なおこの称号は、クリスティーナにも引き継がれた。

※この「ゴート主義」の解説は、「グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)」の解説の一部です。
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