十年戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 14:06 UTC 版)
翌紀元前431年5月、スパルタ王アルキダモス2世率いるペロポネソス同盟軍によるアッティカ侵攻が開始された。対するアテナイはペリクレスの提案によって、城塞外に居住する市民全てをアテナイとペイラエウス港及び両者を繋ぐ二重城壁の内側へ退避させる篭城策を取り、海上よりペロポネソス同盟の本国などを攻撃する作戦を取った。ところが、エジプト・リビア・ペルシャ領・エーゲ海東部で流行していた疫病がアテナイでも発生、市内の治安が乱れ盗賊が横行した、紀元前429年までに市民の約6分の1が病死した。 しかし、海上におけるアテナイ軍の優位は変わらず、紀元前425年のスファクテリアの戦い(英語版)において従来決して降伏しないとされていたスパルタ市民兵120人を含む292人を捕虜とする勝利を収めるなど多くの戦果を得ていた。ペロポネソス同盟軍側は停戦を申し入れたが、ペリクレス死後、好戦的な民衆を抑制出来る指導者を欠いたアテナイはこの申し出を拒否、戦争続行の構えをとった。しかし、戦局は次第にペロポネソス同盟側へ傾き始め、ペロポネソス同盟軍がボイオティアやトラキアにおいて勝利を収める。ところが、紀元前422年にスファクテリアの勝者で、アテナイの好戦的指導者クレオン、同じく主戦派のスパルタの将軍ブラシダスがトラキアのアンフィポリスの戦いで共に戦死した。
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「十年戦争」の例文・使い方・用例・文例
- 宗教改革の後に続いて三十年戦争が起こった.
- 三十年戦争における戦い(1632年)
- 三十年戦争における戦い(1643)
- 1648年に三十年戦争を終わらせた平和条約
- 三十年戦争(1608年−1657年)を終結させるヴェストファーレンの平和に署名したハンガリーおよびボヘミアの神聖ローマ皇帝および王(1608年−1657年)
- ブランデンブルグの有権者で、三十年戦争の間の破壊の後、彼の領土を作り直した(1620年−1688年)
- オーストリアの将軍で、三十年戦争の間にハプスブルクのために戦った(1583年−1634年)
- 三十年戦争という,近世ヨーロッパにおける戦争
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