スファクテリアの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/24 07:30 UTC 版)
「クレオン (政治家)」の記事における「スファクテリアの戦い」の解説
紀元前425年、メッセニアのピュロスでスパルタとアテナイの戦いが行われていた時、スパルタから講和を申し出る使節がやってきた。この時クレオンは民衆に対して戦争続行を扇動し、ピュロスの近くのスファクテリア島のスパルタ兵を武装解除の下アテナイに捕虜として送り、ニサイア、ペガイ、トロイゼン、アカイアをアテナイに返還するという条件ならば応じると回答させ、そのような条件は飲めないとスパルタ側は拒否し、交渉は決裂した。 その後、ピュロスから冬になれば包囲は困難になるという使者がやってきたが、戦況は有利だと常々主張していたクレオンは彼らは真実を伝えていないと述べ立てた。このため、使者たちは別の視察者を選出するよう求め、クレオン自身とテアゲネスが選ばれた。ここで嘘をつくか使節の言うことが正しいと認めるかというのっぴきならない状況に追い込まれたクレオンは使者を送るなど悠長なことをすべきではなく、好機を逸さずに軍を送るべきであり、自分ならばスファクテリア島のスパルタ兵を捕らえることができると主張した。かねてよりクレオンと対立関係にあり、この時遠まわしにあてこすられたニキアスはクレオンが失態を演じるのを期待し、クレオンに自身の将軍としての指揮権を譲渡した。最初クレオンは軍を率いるのを躊躇したが、追い詰められると自分はスパルタ軍を恐れてはおらず、20日以内にスファクテリア島のスパルタ兵を捕らえるか殺すかしてみせると宣言し、名将デモステネスを同僚の将軍に選び、出航した。ところが、この時クレオンは主戦力であったアテナイの重装歩兵を連れて行かず、レムノス島、インブロス島の兵、アイノスの軽装歩兵、その他の地方からの弓兵400人を連れて行っている。トゥキュディデスの記録した戦いの場面において指揮官の名前が出ていないのでクレオンがどの程度戦いに関わったのかは分かっていないが、スファクテリア島のスパルタ兵との戦いにおいてクレオンが連れて行った軽装歩兵と弓兵は左右から敵に矢玉を発射し、重装歩兵からなる敵が近づくと身軽さを生かして後退し、敵が引くと再び攻撃をするというヒット・アンド・アウェイ戦法で消耗させ、ついには絶対降伏しないと言われていたスパルタ兵120人を含む292人を降伏させることに成功した。つまり、クレオンの部隊の選択は正しかったわけであり、彼は敵の重装歩兵部隊を破るのに何が必要であったのかを把握していたのである。帰国したクレオンは一躍時の人となり、スファクテリア島での勝利で名声と勢力を上昇させた。
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