三十年戦争の間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 09:35 UTC 版)
1612年、ヨハン・ローヘルはプラハの大司教に就任した。彼のストラホフでの仕事は、その後、新しい大修道院長、カシュパル・クエストンベルクによって引き継がれた。彼はローヘルによって始められた高価な仕事を続け、プレラチュアの再建を完了させた。聖エリザベート病院と薬局が中庭に設立され、修道院の醸造所も建設された。更に彼は、プラハの新街区にノルバティーン神学校を設立した。教団のメンバーの神学研究の場として設けられたものである。これはすべてが、三十年戦争の間に達成された。当時、カシュパル・クエストエンベルク自身は、暴力によってプラハから逃げることを余儀なくされた。彼の建築活動によって発生した費用の財務勘定は約10万トラールに達した。当時はどんな建築工事にとっても非常に相当多額な金額でした。この点で、カシュパル・クエストエンベルの出費は、彼の同時代人、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインの軍税並だったと言ってもいい。プレモントレ修道会の歴史の中で最大の出来事の1つは、クサンテンのノルベルト(英語版)の遺骨の移転であった。彼はマグデブルクの出身でこの修道会の創設者でもあった。教会は再建されて西に拡張されました。クヴェステンベルクの最大の偉業の1つは、プレモントレ修道会の創設者である聖ノルベルトの遺物の、マクデブルクからストラホフへの移動を監督することだった。遺骨の再埋葬は、クヴェステンベルク監督の下、の修道院で行われた。これは1627年のことで、それ以来、聖人の創設者の遺骨が修道院の教会に安置されている。クヴェステンベルクの時代に、聖ロクス教会の建築も完成した。もともとは、1599年のペストの終焉への感謝の表明として、1602年に神聖ローマ皇帝ルドルフ2世によって建設が開始されたヴォティーフ(奉納、願掛けの)教会であった。数々の運命の変転の後、内装も含めて教会が完成したのは、1630年のことである。カシュパル・クエストエンベルクは、1640年に亡くなり、その後継者クリシュピン・フクは、クエストエンベルクの仕事を引き継いだ。更に彼は、ヴルタヴァ川の「ネポムクのヨハネ(聖人ヤン・ネポムツキー)の早瀬」と呼ばれる (Svatojánské proudy)急流の箇所を通行可能にしたことでも知られている。1949年から55年にかけて、聖ヤンの早瀬の5km以来上流に、スラピー(Slapy)貯水湖を建設し常時川の水量を調節できるようにした。三十年戦争の時期、この戦争の終結間際に修道院は、スウェーデン帝国により略奪を恣にされた。教会と図書館はこれにより荒廃した。スウェーデン軍が去った後、クリュピン・フクは、損傷した修道院を再び修理した。彼の仕事はその後の修道院長たちのアメルクセン、スーター、フランクによって続けられた。最後に挙げられた院長は、プラハのバロック様式の要塞の建設中にカシュパル・クエストエンベルクによって建てられた元の聖エリザベート病院が取り壊されたため、中庭を再建し、新しい聖エリザベス病院が建てた。
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