大修道院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 20:40 UTC 版)
「至聖三者聖セルギイ大修道院」の記事における「大修道院」の解説
1550年代になってモスクワ防衛のため同市の周囲には城塞都市が建設されたが、同様に修道院にも北東からの侵入に備え、周囲に12基の塔を備える1.5キロメートルの石壁が作られていった。1608年から1610年にかけてポーランド・リトアニア共和国によって行われた16ヶ月に及ぶトローイッツェ・セールギエフ大修道院の包囲戦 Siege of Troitse-Sergiyeva Lavraにも耐え抜いた。大聖堂門の漏斗孔は、1618年のヴワディスワフ4世による包囲戦を退けたことを記念して保存された。こうしてトローイッツェ・セルギエフ修道院は、ロシアにとって愛国心や不撓不屈の精神力の代名詞とも言うべき存在になっていった。歴代皇帝は、戦いの前後に修道院に赴き、聖セルギイのイコンを手に戦場へと馳せるようになった。 17世紀末まで、若きピョートル大帝が政敵から2度に渡り修道院に逃れるなどしたこともあり、皇帝や皇后、高位高官を迎えるための多数の施設が建設された。その中には皇帝のための迎賓館、御成御殿ともいうべきバロック様式の皇帝宮殿がある。聖セルギイの食堂(トラーベズナヤ)は中央に柱などの支えが無い、ロシア最大規模510平方メートルを室内空間であった。5つのドームを擁する門上プレッテンチェースカヤ教会(前駆授洗イオアン誕生教会)は、1693年から1699年にかけて、ストロガノフ家の寄付によって建設された。その他、17世紀の建築物としては、修道士の居室、ゾシマ・サヴァティー教会を頂く病院などがある。なお、教会建立の際、神聖と見なされる井戸が覆われてしまったが、後に1644年発見された。 1744年女帝エリザヴェータ・ペトローヴナによってトローイッツェ・セルギエフ修道院は、ラヴラ(大修道院)の格を与えられた。以後、モスクワ府主教は大修道院長を兼務するようになる。エリザヴェータ自身もしばしば修道院に行幸したが、こうした女帝の行幸には、女帝と秘密結婚をしたとの噂もあった寵臣アレクセイ・ラズモフスキー(Alexey Razumovsky)伯爵も同道した。ラズモフスキー伯は、スモレンスクにある聖マリア教会の管理も行っていたが、この教会は最後に大修道院の格を得た教会であり、エリザヴェータお気に入りのもう一つの教会であった。イワン・ミチューリン(Ivan Michurin)とドミトリー・ウフトムスキー(Dmitry Ukhtomsky)設計による高さ88メートルの白と青のバロック式鐘楼は、当時としてはロシア一の高層建築であった。
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