三十年戦争中(1635年 - 1648年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 06:20 UTC 版)
「フランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)」の記事における「三十年戦争中(1635年 - 1648年)」の解説
スペインと開戦したフランスはまず1635年のレザヴァンの戦い(英語版)で勝利したが、スペインは翌年南ネーデルラントで反撃に転じ、電撃の勢いで北フランスに侵攻した。その結果、フランス軍は混乱に陥り、北フランスの経済は大打撃を受けた。そのままパリに侵攻するかと思われたが、スペイン軍は資金の問題で進軍を停止せざるを得なかった。フランス軍は再集結してスペイン軍を南ネーデルラントへ押し返し、またロレーヌ地方のアルザスにも軍を派遣して、地中海沿岸のジェノヴァを経由してスペイン本土とスペイン領ネーデルラントを繋ぐ生命線であったスペインの道(英語版)を切断しようとした。 1640年、スペイン内部での政治的な緊張によりカタルーニャとポルトガルで反乱がおきた。スペインはこれに加えて三十年戦争の最中でもあったため、スペイン帝国の解体が明らかのように見えた。1月17日、カタルーニャ共和国の成立とフランスとの同盟が宣言され、フランス軍は反乱の支援を名目にカタルーニャを占領した。1643年、フランス軍は北フランスのロクロワの戦いでスペイン軍に勝利、スペイン軍無敵の神話がここに終わった。 三十年戦争の最後の10年間において、スペイン領ネーデルラントに駐留したスペイン軍はフランスとオランダ軍に挟み撃ちにされ、レンスの戦い(英語版)でフランス軍に大敗北を喫した。しかし、フランスとオランダの連合軍は依然としてフランドル軍を決定的に打ち倒すことができなかった。三十年戦争の交渉において、フランスはスペインを交渉から除外するよう強く要求したが、諸国の反対に遭って失敗した。ヴェストファーレン条約において、フランスはアルザス地方で領土を獲得、スペインの道の妨害に成功した。スペインはネーデルラント連邦共和国の独立を承認したが、それ以外で失ったものは少なく、ライン川流域で占領した土地を放棄する代わりに賠償金をもらったほどであった。 イタリアにおいて、フランスは嫌々ながら同盟したサヴォイア公国とともにミラノ公国に攻撃を仕掛けたが、これに1639年から1642年までのピエモンテ内戦(英語版)が加わり、情勢は混乱を極めた。1640年のトリノ包囲戦(英語版)はこの紛争で最も有名な戦闘であった。1646年、フランス陸軍を支援するために派遣されたジャン・アルマン・ド・マイレ=ブレゼ(1619年10月18日 - 1646年6月14日)率いるフランス艦隊はオルベテッロの海戦(英語版)で敗れ、陸軍もイタリアでの戦闘で敗れた。ミラノはやはりスペインに支配されたままだった。
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