トリノ包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:18 UTC 版)
サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世は元々フランスと同盟を結んでいたが、1703年から裏でオーストリア側と交渉を行い寝返ったため、フランス軍にサヴォイア軍を捕らえられる羽目に陥った。オーストリアの将軍グイード・フォン・シュターレンベルクは司令官のプリンツ・オイゲンからイタリアのオーストリア軍の指揮権を託され、1704年にヴィットーリオ・アメデーオ2世と合流してサヴォイアの首都トリノでフランス軍に抵抗したが劣勢であった。 1705年にオイゲンがシュターレンベルクと交代しても状況は変わらず、フランスのイタリア方面軍司令官のヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンにカッサーノの戦いで敗れ、オーリオ川から先へ進めずロンバルディア州に留まっていた。しかし、1706年になるとオイゲンがオーストリアの首都ウィーンで待機している時にヴァンドームがロンバルディアへ進軍、4月19日のカルチナートの戦いでオーストリア軍をロンバルディアから追い落とした。オイゲンはガルダ湖周辺の山麓で敗残兵を収容して5月から6月にかけて軍の再編成に務め、ドイツからの援軍及びイングランド・オランダからの財政支援を待って山麓で戦力を蓄えていた。 トリノではフィヤード公ルイ・ド・オービッソン・デ・ラ・フィヤードが包囲軍の指揮を執り5月14日からトリノを包囲していたが、トリノはオーストリアの将軍ヴィリッヒ・フィリップ・ロレンツ・フォン・ダウンが必死に防衛して持ちこたえ、ヴィットーリオ・アメデーオ2世が外に出て騎兵隊で包囲軍を撹乱、フィヤードはそちらに気を取られ追撃したが、山に逃げ込まれ成果を挙げられず、包囲もはかどらないでいた。また、要塞技術者で多くの包囲戦を指揮したヴォーバンの派遣も検討されたが、高齢のため中止になった。
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