カッサーノの戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > カッサーノの戦いの意味・解説 

カッサーノの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/06 01:09 UTC 版)

カッサーノの戦い

戦争スペイン継承戦争
年月日1705年8月16日
場所ロンバルディア地方カッサーノ・ダッダ
結果:フランス軍の勝利
交戦勢力
ハプスブルク帝国 フランス王国
指導者・指揮官
プリンツ・オイゲン戦傷 ヴァンドーム公爵
戦力
24,000人 22,000人
損害
4,000人 5,000人

カッサーノの戦い(カッサーノのたたかい、イタリア語: Battaglia di Cassano d'Adda)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1705年8月16日に現在のイタリアロンバルディア州ミラノ県の都市カッサーノ・ダッダオーストリアフランス軍が衝突した。

オーストリアのイタリア方面軍司令官プリンツ・オイゲン1704年ドイツへ移り、ブレンハイムの戦いイングランド軍司令官マールバラ公ジョン・チャーチルと共にフランス・バイエルン連合軍を撃破してドイツの危機を救ったが、イタリアではオーストリアと同盟していたサヴォイアヴィットーリオ・アメデーオ2世がヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンが率いるフランス軍に攻撃され救援を要請したため、4月にイタリアのロヴェレートに到着したオイゲンはイタリア方面軍を任せていたグイード・フォン・シュターレンベルクと交代、サヴォイアをフランス軍の圧力から解放すべく進軍した。

ヴァンドームはオイゲンの進軍を阻止すべくロンバルディアに布陣、カッサーノ付近を流れるアッダ川にはヴァンドームの弟フィリップが布陣していた。オイゲンはオーストリア軍を率いて西へ進みフィリップの軍勢を圧倒したが、ヴァンドームの救援とオイゲン自身の負傷、アッダ川が雨で増水して溺死者が続出したため渡河を断念、フランス軍の戦略的勝利に終わった。オーストリア軍の成果はオーリオ川東岸の確保とサヴォイアのフランス軍の動きを鈍らせただけだった。

オイゲンは11月に軍事作戦を中止、再びオーストリアへ戻り戦略を練り直していった。一方のフランス軍も行動を控えたため戦役は中断されたが、1706年になると1月にニースがフランス軍に奪われた(ニース包囲戦)ことから戦役が再開された。

参考文献

  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史彩流社、2007年。
  • デレック・マッケイ著、瀬原義生訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-』文理閣、2010年。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「カッサーノの戦い」の関連用語

カッサーノの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



カッサーノの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのカッサーノの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS