イタリア・南フランス方面とは? わかりやすく解説

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イタリア・南フランス方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:50 UTC 版)

スペイン継承戦争」の記事における「イタリア・南フランス方面」の解説

イタリアで早くも1701年から戦闘始まりオイゲン司令官とするオーストリア軍イタリアへ向かった対すフランス将軍ニコラ・カティナは、北イタリア守備固めオーストリアに至る道路封鎖していたが、オイゲンヴェネツィア通りイタリアへ進出カルピの戦いフランス軍破り戦線西へ後退させた。カティナ降格され、ヴィルロワが司令官となったキアーリの戦い大損害を受け、1702年クレモナの戦い捕らえられるなど惨憺たる結果終わり、ヴィルロワは解放された後はネーデルラント転任カティナライン川方面司令官短期間務めた後に引退後任ヴィラール)、ヴァンドームイタリア方面担当することになったオイゲンルッザーラの戦いヴァンドーム勝利して戦線膠着させたが、オーストリアから援助受けられないことと、ドイツバイエルン挙兵危機に立たされたことから、1703年オーストリア向かい軍事掌握した後に、ドイツマールバラ公と共に戦ったオイゲン不在オーストリア軍グイード・フォン・シュターレンベルク指揮を執ったがヴァンドーム前に苦戦サヴォイア大半制圧された。1705年オイゲンイタリアへ戻ったが、ヴァンドームカッサーノの戦い敗北戦局を覆せないままに終わった。 翌1706年オイゲンオーストリアへの援助求めてウィーン滞在して不在の隙を突いたヴァンドームにより、オーストリア軍カルチナートの戦い連敗トリノフランス軍包囲されるまでになったが、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世オーストリア将軍ヴィリッヒ・フォン・ダウンが抵抗して持ちこたえていた。オイゲントリノ救援向かいイタリア西進フランス軍ラミイの戦い大敗して更迭されたヴィルロワと交代してネーデルラント向かったヴァンドーム代わりマルサンオルレアン公フィリップ2世指揮官として派遣されたが、2人オーストリア軍迎え討つ方針巡って対立オイゲン包囲軍の不備突いてトリノの戦い勝利マルサン戦死してフィリップ2世フランスへ敗走トリノ救援ミラノ奪還果たした1707年オイゲンミラノを完全に平定ナポリダウン制圧して、イタリアオーストリアの手入った次にオイゲンヴィットーリオ・アメデーオ2世フランス南部港湾都市トゥーロン包囲したが、フランス将軍テッセ伯ルネ・ド・フルーレの防衛包囲側の不備から奪取見込み無くなり撤退包囲失敗終わったトゥーロン包囲戦)。その後南フランス一進一退となり、オイゲン1708年イタリアからネーデルラント向かいダウンイタリア担当となり、ヴィットーリオ・アメデーオ2世ダウンフランス占領下サヴォイア攻め入ってヴィラールベリック撃退されるという状況終戦まで繰り返されていった

※この「イタリア・南フランス方面」の解説は、「スペイン継承戦争」の解説の一部です。
「イタリア・南フランス方面」を含む「スペイン継承戦争」の記事については、「スペイン継承戦争」の概要を参照ください。

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