ルッザーラの戦いとは? わかりやすく解説

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ルッザーラの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/06 01:10 UTC 版)

ルッザーラの戦い

戦争スペイン継承戦争
年月日1702年8月15日
場所モデナ公国ルッザーラ
結果:引き分け
交戦勢力
ハプスブルク帝国 フランス王国
指導者・指揮官
プリンツ・オイゲン ヴァンドーム公爵
戦力
25,000人 30,000人 - 36,000人
損害
2,000人 4,000人

ルッザーラの戦い(ルッザーラのたたかい、英語: Battle of Luzzara)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1702年8月15日に現在のイタリアエミリア=ロマーニャ州レッジョ・エミリア県の都市ルッザーラオーストリアフランス軍が衝突した。

経過

1702年にフランス軍司令官に就任したヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボングアスタッラから北上、オーストリア軍が駐屯しているマントヴァ公国の包囲を企てた。一方、オーストリア軍は政府から一向に支援が来ないため兵士が略奪に走り、住民が報復にゲリラを起こす悪循環に悩まされた。

司令官のプリンツ・オイゲンは状況打開を図りルッザーラのフランス軍キャンプ場を襲撃、ヴァンドームも応戦した。戦いは夜まで継続し、両軍共に引き上げていった。オーストリア軍の損害は2000人、フランス軍は倍の4000人に達したが、オイゲンはフランス軍をルッザーラから追い出せず、ヴァンドームも大損害を受けたため戦闘継続が出来ず、両軍痛み分けの形でイタリア戦線は停滞した。

戦後、本国からの支援が来ないことに痺れを切らしたオイゲンは、12月末にイタリア方面軍をグイード・フォン・シュターレンベルクに任せ、援助要請のためオーストリアへ帰国した。しかし、ドイツバイエルン選帝侯マクシミリアン2世が反乱を起こしたため、オイゲンは1703年神聖ローマ皇帝レオポルト1世からオーストリア軍の全権を委ねられ、1704年にドイツへ出陣していった。

参考文献

  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史彩流社、2007年。
  • デレック・マッケイ著、瀬原義生訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-』文理閣、2010年。



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