カルチナートの戦いとは? わかりやすく解説

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カルチナートの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/05 14:33 UTC 版)

カルチナートの戦い

戦争スペイン継承戦争
年月日1706年4月19日
場所ロンバルディア地方カルチナート
結果:フランス軍の勝利
交戦勢力
ハプスブルク帝国 フランス王国
指導者・指揮官
クリスチャン・デトレフ・レーヴェントロー ヴァンドーム公ルイ・ド・ブルボン
戦力
19,000人 41,000人
損害
死者・負傷者6,000人 死者・負傷者500人

カルチナートの戦いイタリア語: Battaglia di Calcinato)は、スペイン継承戦争における戦闘の一つで、1706年4月19日に現在のイタリアロンバルディア州ブレシア県の都市カルチナートオーストリアフランス軍が衝突した。

1706年1月4日ニースがフランスの将軍・ベリック公ジェームズ・フィッツジェームズに落とされ、サヴォイアヴィットーリオ・アメデーオ2世グイード・フォン・シュターレンベルクピエモンテで身動きが取れなかった。イタリアのフランス軍を率いるヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンは戦局を有利にするため、ピエモンテとロンバルディアの繋がりを断つべく進軍、オーストリア軍は司令官のプリンツ・オイゲンが不在でデンマーク人のクリスチャン・デトレフ・レーヴェントローが代わりに留守を守っていた。

4月19日、ヴァンドームはオーストリア軍のキャンプに奇襲を仕掛け、オーストリア軍に大損害を与えてロンバルディアから追い立てた。オーストリア軍はチロル付近に逃亡、翌日に到着したオイゲンは6月まで軍の再編成に務めた。

ロンバルディアはフランス軍に平定され、サヴォイアの首都トリノも別のフランス軍に包囲され、事態はフランス有利に動いた。しかし、5月にラミイの戦いスペイン領ネーデルラントに進軍していたフランス軍がイングランドオランダ同盟軍に大敗したため、ヴァンドームがネーデルラントへ送られるとオイゲンはトリノへ向かい、奪還に動き出し進軍を開始した(トリノの戦い)。

参考文献

  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史彩流社、2007年。
  • デレック・マッケイ著、瀬原義生訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-』文理閣、2010年。



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